Re: 「古地図」をどう使う?
投稿者: anti_mainas_shikou 投稿日時: 2010/08/24 19:35 投稿番号: [162 / 2382]
>朝鮮国が独島を子山と呼んでいた事は村上家古文書に記載されていた安龍福の証言でも証明されていま〜す♪
「倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所、松島即子山島、
此亦我國地、汝敢住此耶」
訳
倭人は言う、「吾は本、松島に住んでおり、たまたま漁採の為に来ただけだ。
今、丁度戻ろうとするところだ」。
そこで安龍福は、「松島は即ち子山島だ。これもまた我が国だ、
どうして住めるのだ」 と言った。
これの事か?
どこに 「独島」 の文字があるのだ。
倭人が自分は松島の住民だと言ったのに、
安龍福は 「松島は即ち子山島だ」 と決めつけた。
日本には松島という名の島はゴマンとある。
何で、安龍福は、倭人の言う松島が 「子山島」 だとわかるのだ。
彼は、今の竹島に相当する松島がどういう島か知らないのだ。
この島 (今の竹島) は人が定住できないのだ。
この話は、松島 (今の竹島) を知らない安龍福がデッチ上げたものと見るべきだろう。
つぎは、その説明。
そもそも、彼らは何で 「于 (ウ) 山島」 を 「子山島」 と間違えるのだ。
発音が違うだろう。
彼らは、「于山島」 が何たるかを知らないのだ。
「于山島」 は鬱陵島そのものなのだ。
三国史記の新羅本紀
智證王の13年 (512年) 夏6月、于山国が服属してきて、
年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。
于山国は溟州 (現在の江原道) の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。
とある。つまり三国史記が書かれた時には、于山国は鬱陵島の別名だった。
次に于山島という島名で現われる太宗実録をみよう。
太宗十七年二月壬戌条
安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、
且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生
訳
太宗17年 (1417年) 金麟雨は島民3名を率いて于山島から本土に還ったときに、
大竹、芋、アシカ等を持ち帰っている。
また于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでると報告した。
今の竹島は、古代において、こんなに人が住める島か?
于山島は今の竹島とは別の島である事は明白だろう。
元々、一つの島 (小さな属島を含む) だったものに名前がいくつかつき、
それを二つの島と考える者が出て来た。
高麗史地理志(巻五八)
鬱陵島
在縣正東海中、新羅時、称于山国、一伝武陵、一伝于陵・・・
一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見
訳
鬱陵島は東海中に在り、新羅時代には于山国と呼ばれていた。
この島は時に武陵、或いは于陵とも呼ばれ、・・・
一説には、于山・武陵の二島は距離がそれほど離れていない為、
空気の澄み切った日には、互いを望み見ることが出来る。
そして、二つの島が地図に画かれるようになった。
しかし、鬱陵島以外誰も知らない。
安龍福は倭人が 「松島」 と言うのを聞いて、
勝手に幻の 「子山島」 にあてはめた、というべきだろう。
問題は、一つの島である鬱陵島を二つの島と妄想した事から生じた、混乱に過ぎない。
「倭言吾等本住松島、偶因漁採出来、今当還往本所、松島即子山島、
此亦我國地、汝敢住此耶」
訳
倭人は言う、「吾は本、松島に住んでおり、たまたま漁採の為に来ただけだ。
今、丁度戻ろうとするところだ」。
そこで安龍福は、「松島は即ち子山島だ。これもまた我が国だ、
どうして住めるのだ」 と言った。
これの事か?
どこに 「独島」 の文字があるのだ。
倭人が自分は松島の住民だと言ったのに、
安龍福は 「松島は即ち子山島だ」 と決めつけた。
日本には松島という名の島はゴマンとある。
何で、安龍福は、倭人の言う松島が 「子山島」 だとわかるのだ。
彼は、今の竹島に相当する松島がどういう島か知らないのだ。
この島 (今の竹島) は人が定住できないのだ。
この話は、松島 (今の竹島) を知らない安龍福がデッチ上げたものと見るべきだろう。
つぎは、その説明。
そもそも、彼らは何で 「于 (ウ) 山島」 を 「子山島」 と間違えるのだ。
発音が違うだろう。
彼らは、「于山島」 が何たるかを知らないのだ。
「于山島」 は鬱陵島そのものなのだ。
三国史記の新羅本紀
智證王の13年 (512年) 夏6月、于山国が服属してきて、
年ごとにその地の産物を貢ぎ物として献上した。
于山国は溟州 (現在の江原道) の真東の海上にある島国で、別名を鬱陵島という。
とある。つまり三国史記が書かれた時には、于山国は鬱陵島の別名だった。
次に于山島という島名で現われる太宗実録をみよう。
太宗十七年二月壬戌条
安撫使金麟雨、還自于山島、献土産大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木等物、
且率居人三名以来、其島戸凡十五口男女并八十六、麟雨之往還也、再逢颶風、僅得其生
訳
太宗17年 (1417年) 金麟雨は島民3名を率いて于山島から本土に還ったときに、
大竹、芋、アシカ等を持ち帰っている。
また于山島にはおよそ15戸、男女併せて86人が住んでると報告した。
今の竹島は、古代において、こんなに人が住める島か?
于山島は今の竹島とは別の島である事は明白だろう。
元々、一つの島 (小さな属島を含む) だったものに名前がいくつかつき、
それを二つの島と考える者が出て来た。
高麗史地理志(巻五八)
鬱陵島
在縣正東海中、新羅時、称于山国、一伝武陵、一伝于陵・・・
一云、于山、武陵、本二島、相距不遠、風日清明、則可望見
訳
鬱陵島は東海中に在り、新羅時代には于山国と呼ばれていた。
この島は時に武陵、或いは于陵とも呼ばれ、・・・
一説には、于山・武陵の二島は距離がそれほど離れていない為、
空気の澄み切った日には、互いを望み見ることが出来る。
そして、二つの島が地図に画かれるようになった。
しかし、鬱陵島以外誰も知らない。
安龍福は倭人が 「松島」 と言うのを聞いて、
勝手に幻の 「子山島」 にあてはめた、というべきだろう。
問題は、一つの島である鬱陵島を二つの島と妄想した事から生じた、混乱に過ぎない。
これは メッセージ 109 (h369jp さん)への返信です.
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