三国志魏書高句麗伝←コリアン(高麗)の祖先
投稿者: ftg_algernon 投稿日時: 2012/08/11 14:03 投稿番号: [2484 / 14154]
韓国の史書『三国史記』によると,高麗の国のもとは,高句麗,百済,新羅の三国。高句麗,百済の更に祖先は夫余族とされる。鴨緑江,白頭山(中国の遼東,吉林,黒龍江省)以北が本来のすみからしい。つまり,朝鮮半島発祥の民族ではなく,外来種なのが真相だ。
素朴な疑問だが…,韓国の国名のもとになった『三韓』は,高句麗の分家の『百済』にのっとられ大昔に滅んだ。
で,今では人種も変わってしまって,高句麗人(夫余,貊,貉,穢)に一色に塗りかわってしまっているのでは?
滅んでしまった「三韓」があった地にある国と言えども「大韓民国」を名乗るのは変ではないだろうか?
三韓は倭国と接していた為に,倭人に近い風俗(刺青,養蚕,槍持ち)の人達や,秦から逃げてきた中国人も住んでいたが,長い高麗支配の歴史の中で血が混ざりあい,種族も文化も滅んでしまったろう。
韓国も北朝鮮も,英語では,サウス コリア,ノース コリアだ。
コリア→『高麗』に戻すべきでは?
●『三国志魏書』馬韓
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kudaragaisi/bakan-tsusi.htm
●『三国志魏書』高句麗伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-kokuri-1sangokusi.htm
高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮,口貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戸三萬。多大山深谷,無原澤。隨山谷以為居,食澗水。無良田,雖力佃作,不足以實口腹。其俗節食,好治宮室,於所居之左右立大屋,祭鬼神,又祀靈星,社稷。其人性凶急,善寇鈔。
訳):高句麗は遼東の東千里に在り,南に朝鮮,口貊,東に沃沮,北に扶余と接する。丸都の麓に都を置く,方形は二千里,戸数は三万。多くの大山や深い渓谷があり,原野や沢はない。山や谷に住居を置き,谷川の水を飲む。良田はない,農作業に努めているのだが,腹を満たすには至らない。その風俗は節食,宮廷は善政を行ない,王宮の左右に大きな建物を立て,鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急,金品を強奪することを喜びとする。
句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。
訳):高句麗の立てた国は大水(鴨緑江←■:現在の中国と北朝鮮の国境の大河。)に拠って居を置くが,西安平県の北に小水があり,南に流れて海に注ぐ,句麗の別種が小水に拠って建てた國なので,これの名を小水貊と言う。良質の弓を産する,いわゆる貊弓がこれである。
王莽初發高句麗兵以伐胡,不欲行,彊迫遣之,皆亡出塞為寇盜。遼西大尹田譚追撃之,為所殺。州郡縣歸咎于句麗侯口,嚴尤奏言「貊人犯法,罪不起于口,且宜安慰。今猥被之大罪,恐其遂反。」莽不聽,詔尤撃之。尤誘期句麗侯口至而斬之,傳送其首詣長安。莽大??布告天下,更名高句麗為下句麗。當此時為侯國,
漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見稱王。
訳):王莽(前漢を簒奪した新王朝の皇帝)の初め(西暦12年),胡族討伐に高麗兵を徴発したが行こうとしないので,脅迫してこれを派遣すると全員が長城を逃げ出して強盗となった。
遼西大尹の田譚がこれを追撃したが,殺された。州郡県は句麗侯の口に咎を帰するとした。嚴尤が奏して言うには「貊人が法を犯すも,罪は口に起因せず,しばらくは宜しく安慰すべきで,今,みだりに彼に大罪を被せれば,反乱を起す恐れがあります」と言ったが,王莽は聞き入れず,詔をもって尤に,これを攻撃させた。嚴尤は句麗侯の口に期日を約して誘い出し,これを斬殺し,その首を長安に送り届けた。莽は大いに悦び,高句麗の名を下句麗となすと天下に布告。ちょうどこの時に侯国としたと思われる。
後漢の光武帝の建武八年(西暦32年),高句麗王が朝貢の遣使を送ってきた,王を称する初見である。
至殤,安之間,句麗王宮數寇遼東,更屬玄菟。遼東太守蔡風,玄菟太守姚光以宮為二郡害,興師伐之。宮詐降請和,二郡不進。宮密遣軍攻玄菟,焚燒候城、入遼隧,殺吏民。後宮復犯遼東,蔡風輕將吏士追討之,軍敗没。
訳):殤帝と安帝の間(105年〜125年),句麗王の宮は何度も遼東を略奪するも,なお玄菟郡に属していた。遼東太守蔡風と玄菟太守姚光は二郡に害をなす宮を討伐するため出陣した。宮は講和を請う素振りで騙したため,二郡の軍は進撃できなかった。宮は密かに軍を派遣して玄菟郡を攻め,候城を焼き討ち,遼東に侵入して官吏や住民を殺す。その後も,宮は遼東の侵犯を繰り返したので,蔡風は追討軍を率いて戦うも,戦死した。
素朴な疑問だが…,韓国の国名のもとになった『三韓』は,高句麗の分家の『百済』にのっとられ大昔に滅んだ。
で,今では人種も変わってしまって,高句麗人(夫余,貊,貉,穢)に一色に塗りかわってしまっているのでは?
滅んでしまった「三韓」があった地にある国と言えども「大韓民国」を名乗るのは変ではないだろうか?
三韓は倭国と接していた為に,倭人に近い風俗(刺青,養蚕,槍持ち)の人達や,秦から逃げてきた中国人も住んでいたが,長い高麗支配の歴史の中で血が混ざりあい,種族も文化も滅んでしまったろう。
韓国も北朝鮮も,英語では,サウス コリア,ノース コリアだ。
コリア→『高麗』に戻すべきでは?
●『三国志魏書』馬韓
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kudaragaisi/bakan-tsusi.htm
●『三国志魏書』高句麗伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kanbun-kokuri-1sangokusi.htm
高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮,口貊,東與沃沮,北與夫餘接。都於丸都之下,方可二千里,戸三萬。多大山深谷,無原澤。隨山谷以為居,食澗水。無良田,雖力佃作,不足以實口腹。其俗節食,好治宮室,於所居之左右立大屋,祭鬼神,又祀靈星,社稷。其人性凶急,善寇鈔。
訳):高句麗は遼東の東千里に在り,南に朝鮮,口貊,東に沃沮,北に扶余と接する。丸都の麓に都を置く,方形は二千里,戸数は三万。多くの大山や深い渓谷があり,原野や沢はない。山や谷に住居を置き,谷川の水を飲む。良田はない,農作業に努めているのだが,腹を満たすには至らない。その風俗は節食,宮廷は善政を行ない,王宮の左右に大きな建物を立て,鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急,金品を強奪することを喜びとする。
句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。
訳):高句麗の立てた国は大水(鴨緑江←■:現在の中国と北朝鮮の国境の大河。)に拠って居を置くが,西安平県の北に小水があり,南に流れて海に注ぐ,句麗の別種が小水に拠って建てた國なので,これの名を小水貊と言う。良質の弓を産する,いわゆる貊弓がこれである。
王莽初發高句麗兵以伐胡,不欲行,彊迫遣之,皆亡出塞為寇盜。遼西大尹田譚追撃之,為所殺。州郡縣歸咎于句麗侯口,嚴尤奏言「貊人犯法,罪不起于口,且宜安慰。今猥被之大罪,恐其遂反。」莽不聽,詔尤撃之。尤誘期句麗侯口至而斬之,傳送其首詣長安。莽大??布告天下,更名高句麗為下句麗。當此時為侯國,
漢光武帝八年,高句麗王遣使朝貢,始見稱王。
訳):王莽(前漢を簒奪した新王朝の皇帝)の初め(西暦12年),胡族討伐に高麗兵を徴発したが行こうとしないので,脅迫してこれを派遣すると全員が長城を逃げ出して強盗となった。
遼西大尹の田譚がこれを追撃したが,殺された。州郡県は句麗侯の口に咎を帰するとした。嚴尤が奏して言うには「貊人が法を犯すも,罪は口に起因せず,しばらくは宜しく安慰すべきで,今,みだりに彼に大罪を被せれば,反乱を起す恐れがあります」と言ったが,王莽は聞き入れず,詔をもって尤に,これを攻撃させた。嚴尤は句麗侯の口に期日を約して誘い出し,これを斬殺し,その首を長安に送り届けた。莽は大いに悦び,高句麗の名を下句麗となすと天下に布告。ちょうどこの時に侯国としたと思われる。
後漢の光武帝の建武八年(西暦32年),高句麗王が朝貢の遣使を送ってきた,王を称する初見である。
至殤,安之間,句麗王宮數寇遼東,更屬玄菟。遼東太守蔡風,玄菟太守姚光以宮為二郡害,興師伐之。宮詐降請和,二郡不進。宮密遣軍攻玄菟,焚燒候城、入遼隧,殺吏民。後宮復犯遼東,蔡風輕將吏士追討之,軍敗没。
訳):殤帝と安帝の間(105年〜125年),句麗王の宮は何度も遼東を略奪するも,なお玄菟郡に属していた。遼東太守蔡風と玄菟太守姚光は二郡に害をなす宮を討伐するため出陣した。宮は講和を請う素振りで騙したため,二郡の軍は進撃できなかった。宮は密かに軍を派遣して玄菟郡を攻め,候城を焼き討ち,遼東に侵入して官吏や住民を殺す。その後も,宮は遼東の侵犯を繰り返したので,蔡風は追討軍を率いて戦うも,戦死した。
これは メッセージ 2430 (algernon さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/200000230/4z9qa1a6mfbbgefdnna4accddegkaclda4x_1/2484.html