中国船船長 処分保留で釈放へ

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「装甲車はデモ隊をひき殺した」

投稿者: mm_taxi_hassha 投稿日時: 2010/09/28 16:44 投稿番号: [6803 / 14465]
北京のアメリカ大使館員がちょうど20年前の6月3日から4日にかけて、天安門地区での人民解放軍による民主活動家やデモ参加者の大量虐殺を目撃していました。


その目撃報告は北京のアメリカ大使からホワイトハウスや国務省に秘密の電報の形で送られました。


その内容の全文を以下に紹介します。


          =======



1989年6月3日午後10時30分。


天安門広場の学生たちの拡声器が人民解放軍部隊を建国門地区でうまく後退させたことを告げると、広場と東長安街に集まった約20万の群集の間に安堵の波、陶酔のような反応が広まった。


その後、約1万人のデモ参加者が天安門広場の北東の角へと移動し、勝利集会を開いた。


そこで学生指導者たちが演説し、拍手を送る参加者たちに厳家其、北島、王丹その他の著名な民主活動家を紹介した。


拡声器からは「人民は勝利する」「今日こそが中国の民主主義の始まりだ」「党は再活性され、民主化される」という声が流れた。


この時点では抗議集会参加者のほとんどが自転車で帰宅する様子だった。


  報告者がこの時点で北京飯店に戻ると、大規模な装甲車とトラックの部隊が天安門の西側から広場へと接近していることを米国大使館からの情報で知った。


  報告者はすぐ広場に戻り、米国市民をみつけて、即時の退去を勧告した。20人から25人の米国人は観光客と学生がほとんどだったが、テレビの報道班数人以外はみな広場を離れた。


報告者はさらに広場から西単方向へ歩くと、米国人数人に出会った。


この時点では人民解放軍の装甲車群はすでに到着し、兵士たちの銃撃は激しくなっていた。


このため報告者は米国人たちを小さな路地へ案内し、広場を迂回して北京飯店に戻した。


このように報道陣を除くすべての米国人は装甲車群が広場に着いたときには、すでに広場を離れていた。


午後11時30分。


学生たちの自賛のような演説は人民解放軍が復興門に着いたという発表で中断された。


集会も解散となり、数千ものデモ参加者たちが西単の方向へと走り始めた。


デモ隊は歩道のコンクリートや金属の防壁を剥がして割り、トラックやバスをも転覆させ、バリケードを築いた。


6月4日(日曜日)午前零時5分。


装甲車が一台だけ西長安街を時速56キロほどの速度で東の天安門方向へと走り、デモ隊の中を通り、何人かを引きつぶしていった。


装甲車は人民大会堂の西側を走り、西側階段の下で急停車した。


怒りに燃えた数千人もの抗議者たちが装甲車を追って囲み、コンクリートの破片を投げつけ、金属製の入り口によじ登って激しく叩いた。


同午前零時40分。中南海では人民解放軍歩兵数百人が指導者たちの居住地区からどっと飛び出して、残ったデモ隊を道路側へさらに押し出していった。(つづく)

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