野田も知らない尖閣の知識
投稿者: uncle58jp 投稿日時: 2012/10/03 10:46 投稿番号: [2955 / 5311]
日本が尖閣を領有したときの経緯を図書館で調べてきた。
そこで、研究(?)の成果を「野田も知らない尖閣の知識」と銘打って、諸兄にご紹介しよう。少々長くなるが、時間と興味のある諸兄にはぜひ一読願いたい。
『日本は1895年、尖閣諸島に清国の支配が及んでいないことを確認して、その領有を閣議決定した。』
これが新聞等で報じられている尖閣が日本領である根拠だ。
が、この裏にある事実が大変興味深い。
事実は以下のとおりである。
・1884年、日本人・古賀某が久場島での羽毛生産および漁業の開発許可を沖縄県に願い出た。(漁業はわかるけれども、羽毛はわけわからないが)
・沖縄県から報告を受けた内務省は、沖縄県大書記に近辺の島の実態、他国(清国)との関連の調査を命じた。
・沖縄県令はこれを受けて、かつて数回にわたり沖縄・清国間を渡航し尖閣近辺を航海した経験のある書記生から事情を聴取した。
・書記生は、山があるだとか、水源はないだとか、地形・植生を報告した。但し、上陸はしていない。その理由が、どんな動物がいるかわからないから、ということで、多分ハブにでも噛まれたら大変だと思ったんだろう。だが、大切な問題、つまり尖閣と清国との関連は何ら報告されていない。この書記生はそういう問題意識で島を観察していたわけではないんだから、それは仕方がない。
・沖縄県令はこの書記生報告を添付して、「御下問の、島の清国支配の状況はよくわかりませんが、多分大丈夫じゃないですか」といった趣旨の報告を内務省に上げた。随分粗雑な報告のように思える。内務省の指令に応えて改めて調査隊を出すこともせず、過去の体験者からの伝聞で事を済ませている。察するに、琉球処分で沖縄が強制的に日本に併合されてまだ12年、沖縄の役人は本土政権には面従腹背の姿勢だったと思う。県令は本土からの派遣官だったかもしれないが、部下が動かなかったのだろう。今と違って船はボロだし天気予報だって下駄を投げて占っていた時代(ちょっと言い過ぎか)のこと、あんな絶海の離島へ行くなんて危険なことできるか、と総スカンを食って、県令は仕方なく粗雑な報告でごまかしたのだろう。
・さて、1885年、事態は少し動いた。上記の沖縄県報告を受けた内務省(山県有朋大臣)もしばらく考え込んだ。というのも、清国がすでに島を「釣魚島」と命名していることはわかっている。また台湾の新聞に、多分先述の古賀某のことだろうが、「最近釣魚島に日本人が出没している。警戒が必要だ。」という記事が出たので、清国も島の存在を知らない訳ではない。もしかしたら、琉球が清国の朝貢国だったころ、琉球へ赴く清国の柵封使が中継地か航路の目印に使っていた可能性がある、とも考えた。しかし、内務省は島の領有に前のめりだった。ともかく行動に移そう、もし揉めればまたその時に考えれば良い、というわけで外務省(井上馨大臣)に申し入れた。
・しかし、外務省はそんなちっぽけな島のことで紛争を起こすのはやめてくれ。ともかくもう少しよく調べて、状況を見て決めよう。との返事をよこし、結局この時点での領有は沙汰やみとなった。外務省は大国・清の反発を懸念したことと、もし日清が喧嘩を始めたらロシアがどう出るかを危惧したのだろう。もちろん、内務省への対抗意識というか、内務省なんかの好き勝手にさせるものかという気持ちもあっただろう。
・その10年後の1895年1月、とりたてて再調査することもなく問題の閣議決定が行われた。ただし正確に言うと、尖閣領有の閣議決定ではなかった。「沖縄県から標識杭を打ちたいと申し出があったので、特に差し障りもないからこれを許可する」というのが閣議決定の内容だった。杭を打つことはすなわち領有することと同じことだ、と考える人もいるだろうが、そうでもない。領有宣言を閣議決定したのなら当然近隣関係国に通告しなければいけない。だが、この「杭打ち」は通告もされなかったし、官報に掲載すらされなかった。おまけに杭打ち自体も実行されなかった。考えてみれば杭打ち許可を閣議決定するというのも珍奇な話ではある。要するに閣議決定の本音は領有だったのだが、大ごとになることを恐れて「杭打ち」の包装紙を被せたわけだ。今も昔も役人の狡知には笑わされる。
・1895年4月、下関条約が調印され、台湾が日本に譲渡された。
・1899年、この諸島に「尖閣」という名がついた。何でも八重山の中学校教諭の命名らしい。もちろん、命名の閣議決定などはしなかった。したがって、これまでの説明の中で「尖閣」という言葉を使ってきたが、正確にはその時点では尖閣ではなかったことをお断りしておく。
以上が尖閣領有の経緯だ。ここから何を読み解くかは諸兄にお任せする。
そこで、研究(?)の成果を「野田も知らない尖閣の知識」と銘打って、諸兄にご紹介しよう。少々長くなるが、時間と興味のある諸兄にはぜひ一読願いたい。
『日本は1895年、尖閣諸島に清国の支配が及んでいないことを確認して、その領有を閣議決定した。』
これが新聞等で報じられている尖閣が日本領である根拠だ。
が、この裏にある事実が大変興味深い。
事実は以下のとおりである。
・1884年、日本人・古賀某が久場島での羽毛生産および漁業の開発許可を沖縄県に願い出た。(漁業はわかるけれども、羽毛はわけわからないが)
・沖縄県から報告を受けた内務省は、沖縄県大書記に近辺の島の実態、他国(清国)との関連の調査を命じた。
・沖縄県令はこれを受けて、かつて数回にわたり沖縄・清国間を渡航し尖閣近辺を航海した経験のある書記生から事情を聴取した。
・書記生は、山があるだとか、水源はないだとか、地形・植生を報告した。但し、上陸はしていない。その理由が、どんな動物がいるかわからないから、ということで、多分ハブにでも噛まれたら大変だと思ったんだろう。だが、大切な問題、つまり尖閣と清国との関連は何ら報告されていない。この書記生はそういう問題意識で島を観察していたわけではないんだから、それは仕方がない。
・沖縄県令はこの書記生報告を添付して、「御下問の、島の清国支配の状況はよくわかりませんが、多分大丈夫じゃないですか」といった趣旨の報告を内務省に上げた。随分粗雑な報告のように思える。内務省の指令に応えて改めて調査隊を出すこともせず、過去の体験者からの伝聞で事を済ませている。察するに、琉球処分で沖縄が強制的に日本に併合されてまだ12年、沖縄の役人は本土政権には面従腹背の姿勢だったと思う。県令は本土からの派遣官だったかもしれないが、部下が動かなかったのだろう。今と違って船はボロだし天気予報だって下駄を投げて占っていた時代(ちょっと言い過ぎか)のこと、あんな絶海の離島へ行くなんて危険なことできるか、と総スカンを食って、県令は仕方なく粗雑な報告でごまかしたのだろう。
・さて、1885年、事態は少し動いた。上記の沖縄県報告を受けた内務省(山県有朋大臣)もしばらく考え込んだ。というのも、清国がすでに島を「釣魚島」と命名していることはわかっている。また台湾の新聞に、多分先述の古賀某のことだろうが、「最近釣魚島に日本人が出没している。警戒が必要だ。」という記事が出たので、清国も島の存在を知らない訳ではない。もしかしたら、琉球が清国の朝貢国だったころ、琉球へ赴く清国の柵封使が中継地か航路の目印に使っていた可能性がある、とも考えた。しかし、内務省は島の領有に前のめりだった。ともかく行動に移そう、もし揉めればまたその時に考えれば良い、というわけで外務省(井上馨大臣)に申し入れた。
・しかし、外務省はそんなちっぽけな島のことで紛争を起こすのはやめてくれ。ともかくもう少しよく調べて、状況を見て決めよう。との返事をよこし、結局この時点での領有は沙汰やみとなった。外務省は大国・清の反発を懸念したことと、もし日清が喧嘩を始めたらロシアがどう出るかを危惧したのだろう。もちろん、内務省への対抗意識というか、内務省なんかの好き勝手にさせるものかという気持ちもあっただろう。
・その10年後の1895年1月、とりたてて再調査することもなく問題の閣議決定が行われた。ただし正確に言うと、尖閣領有の閣議決定ではなかった。「沖縄県から標識杭を打ちたいと申し出があったので、特に差し障りもないからこれを許可する」というのが閣議決定の内容だった。杭を打つことはすなわち領有することと同じことだ、と考える人もいるだろうが、そうでもない。領有宣言を閣議決定したのなら当然近隣関係国に通告しなければいけない。だが、この「杭打ち」は通告もされなかったし、官報に掲載すらされなかった。おまけに杭打ち自体も実行されなかった。考えてみれば杭打ち許可を閣議決定するというのも珍奇な話ではある。要するに閣議決定の本音は領有だったのだが、大ごとになることを恐れて「杭打ち」の包装紙を被せたわけだ。今も昔も役人の狡知には笑わされる。
・1895年4月、下関条約が調印され、台湾が日本に譲渡された。
・1899年、この諸島に「尖閣」という名がついた。何でも八重山の中学校教諭の命名らしい。もちろん、命名の閣議決定などはしなかった。したがって、これまでの説明の中で「尖閣」という言葉を使ってきたが、正確にはその時点では尖閣ではなかったことをお断りしておく。
以上が尖閣領有の経緯だ。ここから何を読み解くかは諸兄にお任せする。
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