旧満州が中国領なのは日本のおかげ
投稿者: objective_assertion 投稿日時: 2010/12/14 11:11 投稿番号: [697 / 1326]
清とロシア
東方進出を進めるロシアは17世紀中頃から満州地域で清と衝突した(清・ロシア国境紛争)。ロシアはヤクーツクを中心とするレナ川流域を支配下に置いて先住民から毛皮などを取り立てていたが、次第に農業に適した南のアムール川に関心を示し始めた。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が、ゼヤ川やアルグン川からアムール川に南下し、アルバジンなどの要塞を構え、先住民から毛皮を徴収したり農村を焼いたりするなど入植の動きを見せた。このため清と李氏朝鮮の連合軍は本格的に討伐を行い、アルバジン要塞も陥落した。1689年のネルチンスク条約で清とロシアの間には国境が画定され、外満州は清の領土となりロシアは排除された。
しかし清の弱体後、ロシアは太平洋への出口を求めてアムール川や日本海沿岸への進出を図るようになる。19世紀半ばに東シベリア総督となったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、清との摩擦を恐れる政府官僚の抵抗を押し切り、アムール川河口に前哨を設けたほか船隊を組んでアムール川を探検させるなどアムール左岸の獲得をめざして行動した。また彼は皇帝ニコライ1世から清との国境交渉に関する全権大使に任命され、ますますアムール流域への圧力を強めた。ムラヴィヨフの交渉により、1858年のアイグン条約でアムール川以北が、1860年の北京条約でウスリー川以東が、清からロシアに割譲され外満州はすべてロシア領となった。ロシアは新しい領土で不凍港ウラジオストクなどを開発し、外満州はロシアのアジア支配の拠点となっていった。しかし例外的に、現在の黒龍江省黒河市から見てアムール川の対岸一帯にある清朝居民の居留地、広さ3,600平方キロメートルほどの「江東六十四屯」はロシア領ながら清による管理が認められた。
1900年、義和団の乱(北清事変)の際、清とロシアは満州を巡っても衝突した。6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクを占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、居住していた清国民少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。この事件と、これに続くロシアの東三省(内満州)一時占領は日本での対ロシア警戒感を高め、江東六十四屯の崩壊は『アムール河の流血や』という旧制第一高等学校の寮歌にも歌われている。内満州も、東清鉄道や南満州鉄道といったロシアによる鉄道が建設され、鉄道周囲に鉄道付属地という名の治外法権地域が作られ、旅順がロシアの租借地・軍港となるなど、ロシアの半植民地となっていった。これを朝鮮における権益への脅威と受け取った日本との衝突(日露戦争)の結果、ロシアは後退し、代わって日本がこれらの権益を手中に収める。
この後成立した中華民国政府や北洋軍閥は江東六十四屯の占領を認めず、外満州全体についても「前政権の清王朝が結んだ不平等条約によって割譲されたもので、これらの侵略的な条約は破棄されるべきである」としてロシア領土となったことを認めなかった。またロシア帝国が倒れ、レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべきだ」との宣言を行い、中国側に領土返還の一縷の希望を残した。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたものの、ソ連代表の帰国により締結には至らなかった。また後に登場したヨシフ・スターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否した。
上記から
日本が介入し日露戦争の結果旧満州は日本が支配し1945年に返還された。
もし日本が介入せずロシアの手に落ちてたら?
戦勝国ロシアが沿海州同様領有し続けたはずである。
あくまでも返還されるのは日本が奪取した土地であることが条件だったからである。
すなわち結果的に満州事変のおかげで中国領東北区が存在するといっても過言ではない。
満州事変がなければ吉林省はロシア語の名前になっていた。
東方進出を進めるロシアは17世紀中頃から満州地域で清と衝突した(清・ロシア国境紛争)。ロシアはヤクーツクを中心とするレナ川流域を支配下に置いて先住民から毛皮などを取り立てていたが、次第に農業に適した南のアムール川に関心を示し始めた。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が、ゼヤ川やアルグン川からアムール川に南下し、アルバジンなどの要塞を構え、先住民から毛皮を徴収したり農村を焼いたりするなど入植の動きを見せた。このため清と李氏朝鮮の連合軍は本格的に討伐を行い、アルバジン要塞も陥落した。1689年のネルチンスク条約で清とロシアの間には国境が画定され、外満州は清の領土となりロシアは排除された。
しかし清の弱体後、ロシアは太平洋への出口を求めてアムール川や日本海沿岸への進出を図るようになる。19世紀半ばに東シベリア総督となったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、清との摩擦を恐れる政府官僚の抵抗を押し切り、アムール川河口に前哨を設けたほか船隊を組んでアムール川を探検させるなどアムール左岸の獲得をめざして行動した。また彼は皇帝ニコライ1世から清との国境交渉に関する全権大使に任命され、ますますアムール流域への圧力を強めた。ムラヴィヨフの交渉により、1858年のアイグン条約でアムール川以北が、1860年の北京条約でウスリー川以東が、清からロシアに割譲され外満州はすべてロシア領となった。ロシアは新しい領土で不凍港ウラジオストクなどを開発し、外満州はロシアのアジア支配の拠点となっていった。しかし例外的に、現在の黒龍江省黒河市から見てアムール川の対岸一帯にある清朝居民の居留地、広さ3,600平方キロメートルほどの「江東六十四屯」はロシア領ながら清による管理が認められた。
1900年、義和団の乱(北清事変)の際、清とロシアは満州を巡っても衝突した。6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスクを占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、居住していた清国民少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。この事件と、これに続くロシアの東三省(内満州)一時占領は日本での対ロシア警戒感を高め、江東六十四屯の崩壊は『アムール河の流血や』という旧制第一高等学校の寮歌にも歌われている。内満州も、東清鉄道や南満州鉄道といったロシアによる鉄道が建設され、鉄道周囲に鉄道付属地という名の治外法権地域が作られ、旅順がロシアの租借地・軍港となるなど、ロシアの半植民地となっていった。これを朝鮮における権益への脅威と受け取った日本との衝突(日露戦争)の結果、ロシアは後退し、代わって日本がこれらの権益を手中に収める。
この後成立した中華民国政府や北洋軍閥は江東六十四屯の占領を認めず、外満州全体についても「前政権の清王朝が結んだ不平等条約によって割譲されたもので、これらの侵略的な条約は破棄されるべきである」としてロシア領土となったことを認めなかった。またロシア帝国が倒れ、レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべきだ」との宣言を行い、中国側に領土返還の一縷の希望を残した。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたものの、ソ連代表の帰国により締結には至らなかった。また後に登場したヨシフ・スターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否した。
上記から
日本が介入し日露戦争の結果旧満州は日本が支配し1945年に返還された。
もし日本が介入せずロシアの手に落ちてたら?
戦勝国ロシアが沿海州同様領有し続けたはずである。
あくまでも返還されるのは日本が奪取した土地であることが条件だったからである。
すなわち結果的に満州事変のおかげで中国領東北区が存在するといっても過言ではない。
満州事変がなければ吉林省はロシア語の名前になっていた。
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