ああ、朝日新聞と総連を信じた不幸
投稿者: rykutukgi 投稿日時: 2003/03/10 16:59 投稿番号: [7579 / 28311]
■朝日(1971年12月2日夕刊一面連載記事)
●チュチェの国 北朝鮮 −10−
●清津の涙 祖国選んだ九万人 一切保証された職と生活
みんなふ頭への急いでいた。ブラスバンドが鳴り、旗がひらめいていた。一九七一年十月二十四日の清津港東岸壁は人で埋まっていた。ポツンと白い舟影が見えた。第百六十一次の日本からの帰国者二百五十四人を乗せたマンギョンボウ(万景峰)号だった。
●再会を喜ぶ肉親
「金日成将軍の歌」が勇ましく響いた。沖から、潮の香りとともに「マンセー」(万歳)とのどよめきが伝わってきた。ふ頭の人がきから何人もが、海岸の縁まで飛び出し、「オモニー」(おかあさん)、「アポジー」(おとうさん)。腰の曲がった老婆が背を伸ばし、若い夫婦が子供を差し上げ、学生服の兄弟が飛び上がって肉親の名を呼んだ。
川崎大師から帰国したモン・ジョンホさん(68)は、奥さんと九年ぶり、二人の息子さんとは十一年ぶりの再会だった。そして、初めての孫の顔を見た。東京・江東区の焼き肉屋のおかみ、キムさん(45)は五年ぶりで夫と会った。
これまで何度かみた、帰国船のでる新潟には涙があった。別れの涙が。帰国船の着く清津にも涙があった。再会の熱い涙が。
在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国への帰国事業が始まったのは、千九百五十九年十二月。以来、十二年経ち、八万九千六百九十二人が社会主義を選んで日本海を渡った。
元山で会ったチョン・ファポンさん(37)、パク・ヨンジャさん(34)夫婦は第六十一次船での帰国者だった。生後四ヶ月で海を渡った長男のタルス君は十歳になり、人民学校四年生だった。次男のジャンス君(8)、長女のキョンスクちゃん(3)は共和国生まれだ。
チョンさんは言った。「東京・荏原の東京大原国民学校(当時)では、朝鮮人だ、といじめられた」「就職しようとしても、朝鮮人だ、といって採用してくれなかった」「結婚して、新居を探しても、朝鮮人にはと断られ、日本人の保証人を付けてとやっと古い六畳一間を見つけた」。いま、一家は四階建てアパートの三階にいる。オンドルのよくきいた3DK。
いくらよい成績をとっても、朝鮮人だからといって級長をやらしてもらえず、「くやしかった」という妻のパクさんは、親ばかといわれるかもしれませんが、と前置きをしていった。「うちの男の子は二人とも、いま級長をしているんです。肩身の狭い思いをして育った自分の子供の頃を考えると、帰ってきて本当によかったと思います。」
●15日間、制度を説明
帰国者が、まず荷物をほどく清津の「僑胞迎接局招待所」は鉄筋コンクリート四階建。家族別に生活できるよう六畳から八畳間ほどの部屋が八十室あた。食堂では、帰国祝いのモチが出された。売店には日用雑貨、子供用衣料品、婦人服、そして金日成著作集。三百人収容の講堂があり、理髪室があり、常駐の医者がいて、郵便局の出張所があった。「日本にいる親類や友人に手紙を出すため」と説明された。そして、到着後すぐ、子供を含め、一人頭二十ウォンが当座の”小づかい”として渡される、ともきいた。
僑胞事業総局のパク・セジン清津迎接局長は「祖国に足を入れた瞬間から、帰国同胞の生活は一切保証されます」といった。帰国者は十五日間、この招待所に滞在、健康診断と社会主義制度の基礎的な説明を受け、祖国の朝鮮語を学び、そして希望と持っている技能によって職をえらび、「祖国社会主義建設に参加するのです」。
●元テレビ俳優も
第百六十一次船の帰国者の団長キム・ハキさん(54)は東京・品川区のプラスチック成形加工業の社長だった。「祖国の山が見えたらとたんに涙が出てきて」といったリム・ジョンスンさん(47)は、北九州市から三人の子供を連れて帰ってきた母親だった。福岡県鞍手町の炭鉱町から帰ったオ・リンハク(49)の奥さんは、福岡教育大のそばでホルモン焼きをしていた。「日本人の先生や学生さんたちが、わざわざ歓送会をしてくれて、うれしかったですね。」
コン・ヒョンスンさん(36)もいた。NHKテレビの子供番組「ブーフーウー」のオオカミ役をしていた俳優。「日本では永山一夫と呼ばれていました。でも、もう永山一夫は終わりました。これからは朝鮮人コン・ヒョンスンの始まりです」。そしてコンさんは言った。
「港についたら、うちの坊主がいうんですよ。アレ、あの人もチョンサラム(朝鮮人)だ。この人も、チョンサラムばっかしだって。朝鮮は朝鮮人の国だという当たり前のことが、日本生まれの子供には不思議なんでしょうね。」
(写真解説)夫婦が、親子が、そして祖母と孫が対面した。笑顔と熱い涙があった。(清津ふ頭の待合室で)
(写真も・富田前特派員)
●チュチェの国 北朝鮮 −10−
●清津の涙 祖国選んだ九万人 一切保証された職と生活
みんなふ頭への急いでいた。ブラスバンドが鳴り、旗がひらめいていた。一九七一年十月二十四日の清津港東岸壁は人で埋まっていた。ポツンと白い舟影が見えた。第百六十一次の日本からの帰国者二百五十四人を乗せたマンギョンボウ(万景峰)号だった。
●再会を喜ぶ肉親
「金日成将軍の歌」が勇ましく響いた。沖から、潮の香りとともに「マンセー」(万歳)とのどよめきが伝わってきた。ふ頭の人がきから何人もが、海岸の縁まで飛び出し、「オモニー」(おかあさん)、「アポジー」(おとうさん)。腰の曲がった老婆が背を伸ばし、若い夫婦が子供を差し上げ、学生服の兄弟が飛び上がって肉親の名を呼んだ。
川崎大師から帰国したモン・ジョンホさん(68)は、奥さんと九年ぶり、二人の息子さんとは十一年ぶりの再会だった。そして、初めての孫の顔を見た。東京・江東区の焼き肉屋のおかみ、キムさん(45)は五年ぶりで夫と会った。
これまで何度かみた、帰国船のでる新潟には涙があった。別れの涙が。帰国船の着く清津にも涙があった。再会の熱い涙が。
在日朝鮮人の朝鮮民主主義人民共和国への帰国事業が始まったのは、千九百五十九年十二月。以来、十二年経ち、八万九千六百九十二人が社会主義を選んで日本海を渡った。
元山で会ったチョン・ファポンさん(37)、パク・ヨンジャさん(34)夫婦は第六十一次船での帰国者だった。生後四ヶ月で海を渡った長男のタルス君は十歳になり、人民学校四年生だった。次男のジャンス君(8)、長女のキョンスクちゃん(3)は共和国生まれだ。
チョンさんは言った。「東京・荏原の東京大原国民学校(当時)では、朝鮮人だ、といじめられた」「就職しようとしても、朝鮮人だ、といって採用してくれなかった」「結婚して、新居を探しても、朝鮮人にはと断られ、日本人の保証人を付けてとやっと古い六畳一間を見つけた」。いま、一家は四階建てアパートの三階にいる。オンドルのよくきいた3DK。
いくらよい成績をとっても、朝鮮人だからといって級長をやらしてもらえず、「くやしかった」という妻のパクさんは、親ばかといわれるかもしれませんが、と前置きをしていった。「うちの男の子は二人とも、いま級長をしているんです。肩身の狭い思いをして育った自分の子供の頃を考えると、帰ってきて本当によかったと思います。」
●15日間、制度を説明
帰国者が、まず荷物をほどく清津の「僑胞迎接局招待所」は鉄筋コンクリート四階建。家族別に生活できるよう六畳から八畳間ほどの部屋が八十室あた。食堂では、帰国祝いのモチが出された。売店には日用雑貨、子供用衣料品、婦人服、そして金日成著作集。三百人収容の講堂があり、理髪室があり、常駐の医者がいて、郵便局の出張所があった。「日本にいる親類や友人に手紙を出すため」と説明された。そして、到着後すぐ、子供を含め、一人頭二十ウォンが当座の”小づかい”として渡される、ともきいた。
僑胞事業総局のパク・セジン清津迎接局長は「祖国に足を入れた瞬間から、帰国同胞の生活は一切保証されます」といった。帰国者は十五日間、この招待所に滞在、健康診断と社会主義制度の基礎的な説明を受け、祖国の朝鮮語を学び、そして希望と持っている技能によって職をえらび、「祖国社会主義建設に参加するのです」。
●元テレビ俳優も
第百六十一次船の帰国者の団長キム・ハキさん(54)は東京・品川区のプラスチック成形加工業の社長だった。「祖国の山が見えたらとたんに涙が出てきて」といったリム・ジョンスンさん(47)は、北九州市から三人の子供を連れて帰ってきた母親だった。福岡県鞍手町の炭鉱町から帰ったオ・リンハク(49)の奥さんは、福岡教育大のそばでホルモン焼きをしていた。「日本人の先生や学生さんたちが、わざわざ歓送会をしてくれて、うれしかったですね。」
コン・ヒョンスンさん(36)もいた。NHKテレビの子供番組「ブーフーウー」のオオカミ役をしていた俳優。「日本では永山一夫と呼ばれていました。でも、もう永山一夫は終わりました。これからは朝鮮人コン・ヒョンスンの始まりです」。そしてコンさんは言った。
「港についたら、うちの坊主がいうんですよ。アレ、あの人もチョンサラム(朝鮮人)だ。この人も、チョンサラムばっかしだって。朝鮮は朝鮮人の国だという当たり前のことが、日本生まれの子供には不思議なんでしょうね。」
(写真解説)夫婦が、親子が、そして祖母と孫が対面した。笑顔と熱い涙があった。(清津ふ頭の待合室で)
(写真も・富田前特派員)
これは メッセージ 7576 (kyurokuhachi さん)への返信です.