狂の天逝塵悟03月30日 紅教殉教者
投稿者: popopoakapoppo 投稿日時: 2005/03/30 23:03 投稿番号: [17071 / 28311]
《むごいようだが、イスラムの世界では、天災の犠牲者は特別な意味を持つという。》《病気や老衰でなく、天変地異で亡くなると、幼児でも老人でも殉教者として扱われる。たとえば聖戦ジハードで命を落とした殉教者と高貴さにおいて同列で、そのままでも十分に清らかだという。》《訪れたアチェでは、村々にまだ死臭が漂い、毎日数百もの遺体が掘り出されていた。黒いポリ袋に入れられた骸(むくろ)が、道ばたに積まれていたのを覚えている。》《キリスト教徒もいるが、イスラム教徒の多い地域では、新たな「殉難者」たちを送る葬礼が本格化していく。》
つい最近、まさに生死の修羅場を体験し取材した者が発する言葉に思えるでしょうか?
大概、死を想うことによって、そこから発せられる言葉は、よりいっそう慈愛を帯び深みを増してくるものですが、今日の塵語にはそれを感じません。
扱っている題材、宗教と天災と死の奥深さに関して、じんごチョンPはふれる琴線を持ち合わせていないかのようです。
戦争による死も天変地異による死も、生命にとっての自然の生き死にからみれば、その不条理さにおいて何も変わらぬ同質のものといえましょう。
戦争による死も、それが本来持っている自然の生命を絶ってしまうということで言えば、その死にとっては、人間という生物がおこす天災のようなものといえます。
ですが、凶惨教信者チョンPには、その死を前にしても、敬虔な感情はとんと湧かないらしい。
やはり特別な色の教えに、命を懸けた死でなければ「殉教」といえないかのようです。
おそらく自分の血(体)の中に「生命の潮流」を実感できないのでしょう。
それが丸楠凶惨真理教の教えで、その下では、誰もが平等で一人一人の命はたいして特別重いこともないのでしょう。
人間ひとりの命も、壮大な思想や理念からみればちっぽけな、とるに足らない存在なのでしょう。
死を描くのにこれほど稚拙で、無感情の作文をみることもめったにない。中学生の体験記レベルのようですが、肝心のものがそっくり欠落しています。
このような文章を書ける資質をもった人間は、正直、得体が知れず恐怖を感じます。限りなく冷酷です。ぞっとします。
学歴あるチョンPよく「理を以て非に落ちる」。頭でっかちのへなちょこが統治してうまくいく世の中は、妄想夢想夢精脳の中にしかありませんね。はやく気付いてよ築地教会のチョンPちゃんたち。
これは メッセージ 1 (gesogeso1032 さん)への返信です.
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