Re: 戦前高雄と馬公を往復したフェリー
投稿者: unhoo 投稿日時: 2010/03/29 15:07 投稿番号: [75 / 273]
壱岐丸をウィキペディアで調べることまでは思いつかなかった。調べるとみごとに見つかりました!
下記各項のうち二重丸をつけた項目がそれです!
1905年(明治38年) - 三菱重工業長崎造船所にて竣工。
1905年11月 - 関釜航路開設にあたり、関釜連絡船第一号として就航。
1906年12月1日 - 鉄道国有法によりオーナーの山陽鉄道が買収・国有化され、壱岐丸も国有鉄道の所有となる。
1922年(大正11年)10月 - 青函航路に青函連絡船として転属・就航。
1923年(大正12年)5月 - 稚泊航路(稚内〜大泊(現コルサコフ))開設にあたり、対馬丸の代船として臨時に稚泊連絡船として就航。
1924年(大正13年)7月 - 正式に稚泊航路に配属となり、神戸製鋼所播磨造船所で砕氷船への改造工事を行い就航。
1926年(大正15年) - 1925年の対馬丸の全損遭難事故の教訓を受け、商船として日本で初めて音響測深儀(ファゾメーター)と回転翼式船底測程儀、マルコーニ製無線電話、コルスター式無線方位測程儀を装備等の最新設備を導入。
1931年(昭和6年)2月2日 - 稚泊航路で大寒波のため、通常8時間の航路に89時間を要するという大難航となり、船体を大きく損傷する。その後修理のため5月に函館に回航され係船された。
◎1932年(昭和7年) - 大阪商船に売却され、改装修理後、琉球航路に就航。
1937年(昭和12年) - 北日本汽船(後1943年に大阪商船と合併)に売却され、稚内〜本斗(現ネベリスク)間の樺太航路に就航。
1939年(昭和14年)12月12日 - 稚内沖で遭難したソ連の汽船インディギルカの乗客400名を救助。
1945年(昭和20年)7月25日 - 国有鉄道に傭船され、再び青函連絡船に就航。
1947年(昭和22年)9月 - 傭船終了
1951年(昭和26年) - 低性能船舶買入法により、室蘭にて解体。46年の生涯を閉じる。
◎1932年(昭和7年) - 大阪商船に売却され、改装修理後、琉球航路に就航。
「琉球航路」はウィキペディア記事執筆者の間違いで、高雄ー馬公航路と訂正すべきです。時期が昭和7年ならわしは小学3年で間違いなし。煙突に大阪商船のマークがありました。この船は1905年に建造され、大活躍の後
1951年46歳の天寿を全うしたわけで、めでたい限りです。
この船の「概要」は、
総トン数 1681t
定員 旅客 317人
乗組定員 77人
喫水 3.8m
長さ 82.5m 幅11m 深さ6.7m
貨物搭載量 300t
主缶 舶用スコッチ型2基
主機と軸数 三連成往復動汽機2基、2軸
出力 2422馬力
最高速力 14.96ノット
明治5年に日本がこれだけの船を建造できたとは驚きます。わしが2000トン
と推定しましたが、実際は1681トンだから、かなり正確ですね。
1905年(明治38年) - 三菱重工業長崎造船所にて竣工。
1905年11月 - 関釜航路開設にあたり、関釜連絡船第一号として就航。
1906年12月1日 - 鉄道国有法によりオーナーの山陽鉄道が買収・国有化され、壱岐丸も国有鉄道の所有となる。
1922年(大正11年)10月 - 青函航路に青函連絡船として転属・就航。
1923年(大正12年)5月 - 稚泊航路(稚内〜大泊(現コルサコフ))開設にあたり、対馬丸の代船として臨時に稚泊連絡船として就航。
1924年(大正13年)7月 - 正式に稚泊航路に配属となり、神戸製鋼所播磨造船所で砕氷船への改造工事を行い就航。
1926年(大正15年) - 1925年の対馬丸の全損遭難事故の教訓を受け、商船として日本で初めて音響測深儀(ファゾメーター)と回転翼式船底測程儀、マルコーニ製無線電話、コルスター式無線方位測程儀を装備等の最新設備を導入。
1931年(昭和6年)2月2日 - 稚泊航路で大寒波のため、通常8時間の航路に89時間を要するという大難航となり、船体を大きく損傷する。その後修理のため5月に函館に回航され係船された。
◎1932年(昭和7年) - 大阪商船に売却され、改装修理後、琉球航路に就航。
1937年(昭和12年) - 北日本汽船(後1943年に大阪商船と合併)に売却され、稚内〜本斗(現ネベリスク)間の樺太航路に就航。
1939年(昭和14年)12月12日 - 稚内沖で遭難したソ連の汽船インディギルカの乗客400名を救助。
1945年(昭和20年)7月25日 - 国有鉄道に傭船され、再び青函連絡船に就航。
1947年(昭和22年)9月 - 傭船終了
1951年(昭和26年) - 低性能船舶買入法により、室蘭にて解体。46年の生涯を閉じる。
◎1932年(昭和7年) - 大阪商船に売却され、改装修理後、琉球航路に就航。
「琉球航路」はウィキペディア記事執筆者の間違いで、高雄ー馬公航路と訂正すべきです。時期が昭和7年ならわしは小学3年で間違いなし。煙突に大阪商船のマークがありました。この船は1905年に建造され、大活躍の後
1951年46歳の天寿を全うしたわけで、めでたい限りです。
この船の「概要」は、
総トン数 1681t
定員 旅客 317人
乗組定員 77人
喫水 3.8m
長さ 82.5m 幅11m 深さ6.7m
貨物搭載量 300t
主缶 舶用スコッチ型2基
主機と軸数 三連成往復動汽機2基、2軸
出力 2422馬力
最高速力 14.96ノット
明治5年に日本がこれだけの船を建造できたとは驚きます。わしが2000トン
と推定しましたが、実際は1681トンだから、かなり正確ですね。
これは メッセージ 73 (fengjiadaxue さん)への返信です.
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