地学雑誌 第201号

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P661(前半)

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2012/05/26 08:51 投稿番号: [6 / 23]
隠岐國竹島に関する舊記(承前)

さて夫より三年を過て、元録十一年(西暦1698年)の秋、米子の市人・村川市兵衛、江戸に出て愁訴に及べり(竹島図説)。其の後は如何なりしやらん。何事も聞き侍らず(弘、按ずるに官に此の村川・大谷両人が呈せしといへる此島の事を書き書あるよし聞けり。然れば其書といへるものは、此時の呈書かと思はる。余も此の呈書を見まほしく、累年探索すれども、いまだ得ざること遺恨なり)。然るに其後二十八年を過て享保九(1724年)甲辰の年江府より因州家へ。台聞有て、但し米子は荒尾但馬の食邑なれば同氏へ令して之を止さしめられしとかや。然るに其時彼家より、此両商の呈する所の書を謄写して、大夫池田豊後より官へ呈せしとかや。


第二   地理

さて其島伯州會見郡濱野日三柳村より隠岐の後島へ三十五六里あり、此遠見の考を以って朝鮮の山を見れば、凡四十里と想はる(金森建策筆記、並びに同人の考えに、此山といえるは朝鮮の鬱陵山なるか。此筆記とするもの、享保年間●々渡海する一老漁曳に聞きしなるもののよしなり。弘、再按するに其漁曳というもの、石洲濱田の漁夫長兵衛といへるものが、遊歴の時此近國にて好事の家にて、ながなが筆記するもの、又は旅泊の亭主等に聞に多くは此濱田の長兵衛のことを談じたり。故に其の形勢多くは此長兵衛の伝えしことを以ってしるすなり。長兵衛後、備前に至り小原町といえるにて死す。金森建策が筆記多くは是に●ならん)

其地東西凡三里牢、四里には涵ざるよし雨北凡六七里心6yとかや聞け久周園寺六里といへ久其
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http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chigaku-1905-201/

再按
http://dic.search.yahoo.co.jp//search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E5%86%8D%E6%A1%88
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