メッセージ3番への
投稿者: unhoo 投稿日時: 2009/03/31 01:56 投稿番号: [12 / 1869]
日治時代の台湾の本島人指導者のように持ち上げられた人物は林獻堂(1881ー1956)です。彼の子孫はどうなっているかと調べてみたが、今の所情報が見つからない。
林獻堂は台中州の大地主で、田畑千甲以上とか数千甲を擁していたと伝えられている。「甲」とは田畑の面積の単位で、1甲は1ヘクタールよりちょっと小さい程度。彼は台中州の霧峰という村に台湾式古風の大邸宅を構えていた。漢文の素養があって温厚な性格だったから自然と、台湾人から指導者に祭り上げられた。よって総督府も彼の発言には一応の敬意を払った。
台湾が日本の統治にはいった1895年(明治28年)に、彼は数え年15歳だったが、終生日本語を学ばなかったと伝えられている。彼は総督府から迫害を受けたことはなく、むしろ礼遇をうけていた。清朝が倒れた年の1912年に彼は数え年31歳だったが、それまで清朝を敬っていたかどうか不明である。彼が何歳で辮髪を切ったかわかればよいのだが、その資料がみつからない。中国人は清朝を愛して、清朝の復興を願う者の方が多かったと各国の歴史家は言っている。清朝の辮髪令は非常に厳しいもので、和尚以外の男性が辮髪をしなかったら死刑になった。清朝の人民は辮髪令さへ守っていれば、以前のどの朝代の人民よりも幸福だったと世界の歴史家は言っているのである。
支那事変が始まったのは清朝が倒れてから25年だった。事変が始まると林獻堂は「台湾同胞よ、祖国を忘れるな(支那を支持せよ)」という談話を発表した。総督府からは何の咎めも受けなかったし、台湾人が彼の談話を支持していたという様子もない。
林獻堂は当時の中国の実情は知らなかったが、総督統治下の台湾ぐらいの安定、治安、規律は世界のどこにも当然有るものときめていたのであろう。台湾総督府の実力で実現したものとは思っていなかった。かれは祖国(中国)が台湾を統治しに来たら、安定、治安、規律はそのままで、ただ官吏が同じ民族の人だから、何事も話せばわかるいい社会になるとでも思っていたのだろうか。実際には昭和12年ごろの台湾人で、台湾が支那に統治されることを望む者はいなかった。
彼は政治には野心がなかった。本島人のリーダーに祭り上げられたことは、いい気持ちだったかもしれないし、ありがた迷惑だったかもしれない。
日本が敗戦し、支那が台湾へやってきた。台湾人の立場は何もかも悪くなって行った。2.28事件後、外省人政府が地主階級を事実上破産させる法律を作った。林獻堂の幾千甲の田畑は所有権が有名無実になり、やがては失われる運命に陥った。このことをちょっと説明すると、次のとおりである。2.28事件の後、外省政権は台湾人の中に外省政権を支持する階層を作る必要を感じた。外省政権にとって、非常に好都合な事実がみつかった。台湾の農民は小作人が大多数で、地主は少数である。よって小作人の権利を強化する法律を作った。地主が取る小作料に強い制限を加え、地主が田畑を回収することを禁止した。これによって十数万所帯の地主階級は事実上財産を失うが、その代わり百万所帯以上の小作人は事実上の地主になる。外省政府は数十万人の地主家庭の成員を敵にしてしまう代わりに、数百万の小作人家庭の成員を味方につける。しかも外省人で台湾の田畑の地主である者は当時皆無であったから、この法律で損害を受ける外省人は零である。
かくて、一紙の法令で数千甲の田畑の所有権が有名無実になった林獻堂は、憤然と故郷台湾を離れて日本へ旅立った。台湾に祖国が来てから僅か三、四年のことである。当時の日本にはまだ戦前の本島人リーダー林獻堂を覚えている新聞記者が多かった。記者たちの質問に対して林獻堂は「本島人は日本人に反感を持っていない」と答えた。
彼は再び台湾へ帰ることなく、晩年の約7年を日本に住み、1956年東京で物故した。
林獻堂は台中州の大地主で、田畑千甲以上とか数千甲を擁していたと伝えられている。「甲」とは田畑の面積の単位で、1甲は1ヘクタールよりちょっと小さい程度。彼は台中州の霧峰という村に台湾式古風の大邸宅を構えていた。漢文の素養があって温厚な性格だったから自然と、台湾人から指導者に祭り上げられた。よって総督府も彼の発言には一応の敬意を払った。
台湾が日本の統治にはいった1895年(明治28年)に、彼は数え年15歳だったが、終生日本語を学ばなかったと伝えられている。彼は総督府から迫害を受けたことはなく、むしろ礼遇をうけていた。清朝が倒れた年の1912年に彼は数え年31歳だったが、それまで清朝を敬っていたかどうか不明である。彼が何歳で辮髪を切ったかわかればよいのだが、その資料がみつからない。中国人は清朝を愛して、清朝の復興を願う者の方が多かったと各国の歴史家は言っている。清朝の辮髪令は非常に厳しいもので、和尚以外の男性が辮髪をしなかったら死刑になった。清朝の人民は辮髪令さへ守っていれば、以前のどの朝代の人民よりも幸福だったと世界の歴史家は言っているのである。
支那事変が始まったのは清朝が倒れてから25年だった。事変が始まると林獻堂は「台湾同胞よ、祖国を忘れるな(支那を支持せよ)」という談話を発表した。総督府からは何の咎めも受けなかったし、台湾人が彼の談話を支持していたという様子もない。
林獻堂は当時の中国の実情は知らなかったが、総督統治下の台湾ぐらいの安定、治安、規律は世界のどこにも当然有るものときめていたのであろう。台湾総督府の実力で実現したものとは思っていなかった。かれは祖国(中国)が台湾を統治しに来たら、安定、治安、規律はそのままで、ただ官吏が同じ民族の人だから、何事も話せばわかるいい社会になるとでも思っていたのだろうか。実際には昭和12年ごろの台湾人で、台湾が支那に統治されることを望む者はいなかった。
彼は政治には野心がなかった。本島人のリーダーに祭り上げられたことは、いい気持ちだったかもしれないし、ありがた迷惑だったかもしれない。
日本が敗戦し、支那が台湾へやってきた。台湾人の立場は何もかも悪くなって行った。2.28事件後、外省人政府が地主階級を事実上破産させる法律を作った。林獻堂の幾千甲の田畑は所有権が有名無実になり、やがては失われる運命に陥った。このことをちょっと説明すると、次のとおりである。2.28事件の後、外省政権は台湾人の中に外省政権を支持する階層を作る必要を感じた。外省政権にとって、非常に好都合な事実がみつかった。台湾の農民は小作人が大多数で、地主は少数である。よって小作人の権利を強化する法律を作った。地主が取る小作料に強い制限を加え、地主が田畑を回収することを禁止した。これによって十数万所帯の地主階級は事実上財産を失うが、その代わり百万所帯以上の小作人は事実上の地主になる。外省政府は数十万人の地主家庭の成員を敵にしてしまう代わりに、数百万の小作人家庭の成員を味方につける。しかも外省人で台湾の田畑の地主である者は当時皆無であったから、この法律で損害を受ける外省人は零である。
かくて、一紙の法令で数千甲の田畑の所有権が有名無実になった林獻堂は、憤然と故郷台湾を離れて日本へ旅立った。台湾に祖国が来てから僅か三、四年のことである。当時の日本にはまだ戦前の本島人リーダー林獻堂を覚えている新聞記者が多かった。記者たちの質問に対して林獻堂は「本島人は日本人に反感を持っていない」と答えた。
彼は再び台湾へ帰ることなく、晩年の約7年を日本に住み、1956年東京で物故した。
これは メッセージ 3 (heitotakaohonor さん)への返信です.