【台湾】日本人はとても素敵だった 13
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/09/28 00:36 投稿番号: [579 / 735]
【父母のこと】
私は、弘明電気商会という電気店を経営する弘山家の次女として生まれました。
家族は両親に兄、妹が二人に弟が一人でした。
弘山という名前は、昭和十五年、私が小学校二年生の時に
両親が日本名に改姓名した名前です。元々は楊という名前でした。
父母が生まれた時、台湾は既に日本時代でした。
それで、父は完璧に日本人になりきっていました。
父の日本名は、弘山清一です。
父の祖先は白虎将軍といって清朝の役人をしていたそうで、
今で言うと勲何等といった位を持っていたようです。
ただ、私は子供の頃から清朝と聞くとあまりいい気持ちはしませんでした。
父は小さい頃に養子に行ったそうですが、そこの家はわりあいに裕福で、
また台北工業学校に通っていた間、父は奨学金をもらっていて、
その中から同郷の貧しい後輩を助けていたといいます。
父は学校の成績が良いだけでなく、囲碁などもやり、運動選手でもありました。
私が小学校一年生の時、何かで賞をとって、
賞品として羽織袴をもらってきたこともありました。
父は台北工業学校を首席で卒業した後、台湾電力に勤めて台北で働いていました。
そして、父が二十九歳の時に、養母から呼び戻され母とお見合いをし、
母の母が父をなかなか正直で真面目そうな青年だと感じたことで、
結婚することになったのです。
当時父は二十九歳、母は二十七歳で、その頃としては二人とも晩婚でした。
父は、結婚して台南に来てからも電力会社に勤め、
ずいぶんといい給料を頂いていたそうです。
父の部下には、大勢の日本人がいたと聞いています。
つまり、日本時代には、台湾人でも日本人の上に立つことが出来たのです。
部下の日本人も皆父のことを尊敬していたそうです。
その後、電力会社を退職して、
自分で弘明電気商会という電気店の経営を始めました。
魚の養殖池に海水を取り入れて循環させるモーターの全島一手販売
(台湾の総代理店)を手がけるなど、十数人の丁稚奉公を抱えて
手広く事業をしていました。
それに、父は電話にかけては専門家でしたから、四春園というホテルと
台南病院の電話の一切を引き受けていました。
また、皆が電球や電池を買いに来たり、アイロンのヒューズが切れた
といっては持って来たりして、弘明電気商会は台南では
なくてはならない存在だったようです。
家のすぐ近くには近松門左衛門の「国性爺合戦」で有名な鄭成功を祀った
開山神社があり、神社のお祭りの時には、中学生を集めて相撲を取らせたり
していました。
私は女の子のくせに、コンクリートの塀に座ってよく相撲を見ていたものでした。
母は高雄の田舎の豪農の娘で、日本名は敏恵といいました。
母の父は漢方医をしていました。
ですから、母の兄弟はほとんど医者でした。
母も医者になろうとしていましたが、十九歳の時に父親が亡くなって
しまったために勉強を続けられませんでした。
それでも、薬草の知識が豊富で、この草は食べられる、これは食べられない、
これはどういう薬だとか、私が子供の頃は色々と教えてくれました。
母方の祖父の時代は、ちょうど日本の統治が始まったばかりの頃で、
まだ各地方に日本でいうところの藩のようなものがあり、
互いに勢力争いをしていたそうです。
祖父は村を守っている親玉、殿様みたいな存在で、
自ら銃を持って自分の村を守っていたそうです。
当時は土匪(抗日ゲリラ)がいましたので、土匪が出たというとそれを
征伐に行っていたといいます。
後に、日本軍が村に来た時は、銃を持っていると革命軍と思われてしまい
物騒だからということで、二重になっている壁に銃を埋めて隠したそうです。
昭和の初期頃、家を立て替えた際に掘り出されたものの、
すっかり錆び付いていて全く使い物にならなかったそうです。
つづく
私は、弘明電気商会という電気店を経営する弘山家の次女として生まれました。
家族は両親に兄、妹が二人に弟が一人でした。
弘山という名前は、昭和十五年、私が小学校二年生の時に
両親が日本名に改姓名した名前です。元々は楊という名前でした。
父母が生まれた時、台湾は既に日本時代でした。
それで、父は完璧に日本人になりきっていました。
父の日本名は、弘山清一です。
父の祖先は白虎将軍といって清朝の役人をしていたそうで、
今で言うと勲何等といった位を持っていたようです。
ただ、私は子供の頃から清朝と聞くとあまりいい気持ちはしませんでした。
父は小さい頃に養子に行ったそうですが、そこの家はわりあいに裕福で、
また台北工業学校に通っていた間、父は奨学金をもらっていて、
その中から同郷の貧しい後輩を助けていたといいます。
父は学校の成績が良いだけでなく、囲碁などもやり、運動選手でもありました。
私が小学校一年生の時、何かで賞をとって、
賞品として羽織袴をもらってきたこともありました。
父は台北工業学校を首席で卒業した後、台湾電力に勤めて台北で働いていました。
そして、父が二十九歳の時に、養母から呼び戻され母とお見合いをし、
母の母が父をなかなか正直で真面目そうな青年だと感じたことで、
結婚することになったのです。
当時父は二十九歳、母は二十七歳で、その頃としては二人とも晩婚でした。
父は、結婚して台南に来てからも電力会社に勤め、
ずいぶんといい給料を頂いていたそうです。
父の部下には、大勢の日本人がいたと聞いています。
つまり、日本時代には、台湾人でも日本人の上に立つことが出来たのです。
部下の日本人も皆父のことを尊敬していたそうです。
その後、電力会社を退職して、
自分で弘明電気商会という電気店の経営を始めました。
魚の養殖池に海水を取り入れて循環させるモーターの全島一手販売
(台湾の総代理店)を手がけるなど、十数人の丁稚奉公を抱えて
手広く事業をしていました。
それに、父は電話にかけては専門家でしたから、四春園というホテルと
台南病院の電話の一切を引き受けていました。
また、皆が電球や電池を買いに来たり、アイロンのヒューズが切れた
といっては持って来たりして、弘明電気商会は台南では
なくてはならない存在だったようです。
家のすぐ近くには近松門左衛門の「国性爺合戦」で有名な鄭成功を祀った
開山神社があり、神社のお祭りの時には、中学生を集めて相撲を取らせたり
していました。
私は女の子のくせに、コンクリートの塀に座ってよく相撲を見ていたものでした。
母は高雄の田舎の豪農の娘で、日本名は敏恵といいました。
母の父は漢方医をしていました。
ですから、母の兄弟はほとんど医者でした。
母も医者になろうとしていましたが、十九歳の時に父親が亡くなって
しまったために勉強を続けられませんでした。
それでも、薬草の知識が豊富で、この草は食べられる、これは食べられない、
これはどういう薬だとか、私が子供の頃は色々と教えてくれました。
母方の祖父の時代は、ちょうど日本の統治が始まったばかりの頃で、
まだ各地方に日本でいうところの藩のようなものがあり、
互いに勢力争いをしていたそうです。
祖父は村を守っている親玉、殿様みたいな存在で、
自ら銃を持って自分の村を守っていたそうです。
当時は土匪(抗日ゲリラ)がいましたので、土匪が出たというとそれを
征伐に行っていたといいます。
後に、日本軍が村に来た時は、銃を持っていると革命軍と思われてしまい
物騒だからということで、二重になっている壁に銃を埋めて隠したそうです。
昭和の初期頃、家を立て替えた際に掘り出されたものの、
すっかり錆び付いていて全く使い物にならなかったそうです。
つづく
これは メッセージ 578 (ajisai110701 さん)への返信です.
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