Re: まったくです。
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/11/26 21:47 投稿番号: [527 / 1329]
ご賛同頂き、ありがとうございます。
こういう歴史的な和解はどうでしょうか。
トピずれご容赦&宣伝のつもりはありません。(苦笑)
韓国とも中国共産党とも戦ってないから、和解ができないのでしょうか?
梯(かけはし)久美子著『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
『 その南海岸で”名誉の再会”と名づけられた記念式典が行われたのは、戦後40年を経た昭和60年のことである。
それは、かつて敵味方として戦った日米の元兵士たちが一堂に会するイベントだった。目的は、両国の戦死者をともに弔い平和を誓い合うこと。あれほど多くの犠牲者を出した凄惨な戦いの当事者同士が、戦場となった場所で合同式典を行う話は例がない。しかしそれは実際に行われたのである。遺族を含め、日米合わせて400名近くが参加した。
その日の様子を撮影したドキュメンタリービデオには、印象的なシーンが収められている。最初は日米それぞれのグループに分かれていた元兵士やその家族たちが、式典のプログラムが終わる頃、どちらからともなく歩み寄ったのである。
最初はおずおずと、次第に力強く握手が交わされる。泣きながら肩を抱き合い、身振り手振りで語り合う。今でも脚に弾丸が入ったままだと言われて「きっとそれは俺の撃った弾だ」と冗談を飛ばす者もいれば、「顔に大やけどをして米軍に救出された。だから俺の鼻はメイド・イン・USAだ」と笑う元日本兵もいる。遺族たちもいつの間にか手を取り合っていた。
ただし、最初から何のこだわりもなく参加した者ばかりではない。ビデオには、かつて海兵隊第四師団に所属し上陸作戦に参加したエド・モラーニクが、硫黄島に向う飛行機の中で、
「私にとってこれは楽しい旅ではない。妻のこれまでの苦労を思うと……正直言って元日本兵とまともに顔を合わせるのは気が重いね」
と語る場面がある。
彼は硫黄島で顔に砲弾を受け、容貌が完全に変わってしまった。戦争直後の顔写真では、鼻はほぼ完全に失われ、目も口も大きくゆがんでいる。戦後、22回におよぶ形成手術を受けてどうにか社会復帰を果たしたのだという。
しかし、帰路についたモラーニクの表情は行きとは違っていた。彼はインタヴューに答えて、
「40年前、私は日本人ではなく、”ジャップ”を殺すためにこの島へやってきた。今、彼らと殺し合ったことを心から悔やんでいるよ」
と語った。
(中略)
日米合同の慰霊追悼式は、現在も続けられている。かつて殺し合った者同士の再会と和解が、硫黄島に限って実現したのはなぜだろうか。ほとんど顔をつきあわせるようにして激烈な接近戦を演じ、互いに死力を尽くしたからこそ、歳月を経て許し合い理解し合う関係になれたということなのか。それは戦った当事者以外にはわかないことであろう。』
『 摺鉢山の頂上に星条旗が立てられた・・・(中略)
あの歴史的な瞬間に摺鉢山の頂上にいた40人中、自分の足で歩いて帰りの船に乗り込んだ者はわずか4人。残りの36人のうち、運のいいものは担架に乗せられて島を去り、運の悪いものは死体となって島に埋葬されることなる。』
『 硫黄島で負傷し米軍の捕虜となった大越晴則は、捕虜収容所を経て昭和22年1月に復員した。海軍特別少年兵だった彼は、硫黄島で戦ったとき、まだ17歳だった。捕虜としても最も若かったが”イオージマ・ソルジャー”であることが知れると、どの収容所でも米軍人から一目置かれた。大越は言う。
「”カミカゼ・ソルジャー”と”イオージマ・ソルジャー”は特別だ―――ある米軍人からそう言われました」』
『 謝辞 (前略)
最後に、私たち次世代のために、言葉に尽くせぬ辛苦に耐え、ふるさとを遠く離れて亡くなったすべての戦没者の方たちに、あらためて尊敬と感謝を捧げたい。』
父親たちの星条旗
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324328/
硫黄島からの手紙
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324563/
こういう歴史的な和解はどうでしょうか。
トピずれご容赦&宣伝のつもりはありません。(苦笑)
韓国とも中国共産党とも戦ってないから、和解ができないのでしょうか?
梯(かけはし)久美子著『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』
『 その南海岸で”名誉の再会”と名づけられた記念式典が行われたのは、戦後40年を経た昭和60年のことである。
それは、かつて敵味方として戦った日米の元兵士たちが一堂に会するイベントだった。目的は、両国の戦死者をともに弔い平和を誓い合うこと。あれほど多くの犠牲者を出した凄惨な戦いの当事者同士が、戦場となった場所で合同式典を行う話は例がない。しかしそれは実際に行われたのである。遺族を含め、日米合わせて400名近くが参加した。
その日の様子を撮影したドキュメンタリービデオには、印象的なシーンが収められている。最初は日米それぞれのグループに分かれていた元兵士やその家族たちが、式典のプログラムが終わる頃、どちらからともなく歩み寄ったのである。
最初はおずおずと、次第に力強く握手が交わされる。泣きながら肩を抱き合い、身振り手振りで語り合う。今でも脚に弾丸が入ったままだと言われて「きっとそれは俺の撃った弾だ」と冗談を飛ばす者もいれば、「顔に大やけどをして米軍に救出された。だから俺の鼻はメイド・イン・USAだ」と笑う元日本兵もいる。遺族たちもいつの間にか手を取り合っていた。
ただし、最初から何のこだわりもなく参加した者ばかりではない。ビデオには、かつて海兵隊第四師団に所属し上陸作戦に参加したエド・モラーニクが、硫黄島に向う飛行機の中で、
「私にとってこれは楽しい旅ではない。妻のこれまでの苦労を思うと……正直言って元日本兵とまともに顔を合わせるのは気が重いね」
と語る場面がある。
彼は硫黄島で顔に砲弾を受け、容貌が完全に変わってしまった。戦争直後の顔写真では、鼻はほぼ完全に失われ、目も口も大きくゆがんでいる。戦後、22回におよぶ形成手術を受けてどうにか社会復帰を果たしたのだという。
しかし、帰路についたモラーニクの表情は行きとは違っていた。彼はインタヴューに答えて、
「40年前、私は日本人ではなく、”ジャップ”を殺すためにこの島へやってきた。今、彼らと殺し合ったことを心から悔やんでいるよ」
と語った。
(中略)
日米合同の慰霊追悼式は、現在も続けられている。かつて殺し合った者同士の再会と和解が、硫黄島に限って実現したのはなぜだろうか。ほとんど顔をつきあわせるようにして激烈な接近戦を演じ、互いに死力を尽くしたからこそ、歳月を経て許し合い理解し合う関係になれたということなのか。それは戦った当事者以外にはわかないことであろう。』
『 摺鉢山の頂上に星条旗が立てられた・・・(中略)
あの歴史的な瞬間に摺鉢山の頂上にいた40人中、自分の足で歩いて帰りの船に乗り込んだ者はわずか4人。残りの36人のうち、運のいいものは担架に乗せられて島を去り、運の悪いものは死体となって島に埋葬されることなる。』
『 硫黄島で負傷し米軍の捕虜となった大越晴則は、捕虜収容所を経て昭和22年1月に復員した。海軍特別少年兵だった彼は、硫黄島で戦ったとき、まだ17歳だった。捕虜としても最も若かったが”イオージマ・ソルジャー”であることが知れると、どの収容所でも米軍人から一目置かれた。大越は言う。
「”カミカゼ・ソルジャー”と”イオージマ・ソルジャー”は特別だ―――ある米軍人からそう言われました」』
『 謝辞 (前略)
最後に、私たち次世代のために、言葉に尽くせぬ辛苦に耐え、ふるさとを遠く離れて亡くなったすべての戦没者の方たちに、あらためて尊敬と感謝を捧げたい。』
父親たちの星条旗
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324328/
硫黄島からの手紙
http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tymv/id324563/
これは メッセージ 525 (aki_kaze_u_ru_ru さん)への返信です.
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