忘れられた最大の功労者 李承晩
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2008/08/18 18:08 投稿番号: [1473 / 2701]
大韓民国建国の陰に多数の人々の力が
60年前の8月15日、自由民主主義を掲げ、大韓民国建国の中心となった人物は誰だろうか。
建国に直接携わったのは、初代大統領の李承晩、第2代副大統領の金性洙などの韓国民主党系の人物、国会議長の申翼煕と初代副大統領の李始栄などの上海臨時政府系、米軍政庁の民政長官だった安在鴻などが挙げられる。金九や金奎植、趙素昂など、上海臨時政府の指導者も建国の陰の功労者といえる。また、日本や中国、ロシアの地で苦労と弾圧に耐えながら民族独立運動を展開した幾多の運動家も、建国の主役だった。「数え切れないほど多い」という月並みな表現が、最適なのかもしれない。
韓国憲法の前文も「(韓国は)3・1運動によって設立された大韓民国臨時政府の法統を受け継ぐ」と明記している。
誰よりも建国に貢献した人物といえば、初代大統領の李承晩だ。李は鎖国状態だった朝鮮王朝に開国を促し、米政府を相手に独立運動を展開した。解放後、米ソ冷戦に突入していく国際情勢を正確に読み、韓国政府樹立を実現した。
李承晩は過去数十年間、韓国で高く評価されてきたとはいい難い。政権末期の失政に加え、1960年のクーデターで大統領となった朴正煕が、李承晩政権を否定するために「(李政権には)不正・腐敗がはびこっていた」と印象づけたからだ。
1980年代になると、学生運動の中心となった主体思想派は、李承晩を「分断の責任者」と批判した。一般大衆だけでなく、保守派知識人でさえ「金日成だけでなく李承晩も朝鮮半島分断の当事者」という認識を持ちはじめた。
李承晩に対する批判は、金大中政権発足以降、急速に高まっていった。国民の多くは「李承晩=反民族主義者」と考えるようになった。当時、ある月刊誌が行った「尊敬する韓国の政治指導者」というリサーチで、李承晩は韓国歴代大統領で最低となる1%台の支持率だった。金日成(3%台)よりも低い数字だった。
李承晩の低支持率は、親北派の印象操作によるものといえる。工作は緻密に計算されていた。
親北派は李承晩を極端な「反共・反北朝鮮主義者」として規定。自らの“生存空間”を確保した。金大中と盧武鉉が金正日と締結した南北共同宣言などで民族和解の土台を築き「北朝鮮との共助」を訴えた。
親北派はことあるごとに「自主」を掲げ、韓米同盟などを糾弾してきた。しかし、皮肉なことに「自主」を徹底した人物こそ李承晩だった。
1945年12月28日、米英ソの3国がモスクワで会談を行い「韓国を5年間信託統治する」と決めると、韓国国内では激しい論議が交わされた。李承晩と金九、金奎植は信託統治に反対。朝鮮共産党の朴憲永らは支持に回った。
李承晩らは信託統治に激しい反対姿勢を見せ、信託統治は実現しなかった。これを機に、朝鮮半島南部で台頭していた共産主義は急速に衰退した。
米国は李承晩を危険人物と見ていた。朝鮮半島の信託統治を目指す米国にとって李の帰国が不都合だったからだ。
当時、米軍政庁長官だったジョン・ホッジ中将は「李承晩は韓国で誕生するいかなる形態の政府にも参加できない」として、約2カ月間、李を自宅軟禁した。
しかし、1947年3月のいわゆる「トルーマンドクトリン」発表により米国は反共路線をとる。同年11月には国連も朝鮮半島で総選挙(北朝鮮では実施できず)を行う案を可決した。国際情勢は、反共・独立を目指す李承晩の構想と同じ方向に流れた。
李承晩は1948年7月、圧倒的支持を得て大統領に当選した。日本によって国権を喪失してから38年、解放3年目のことだった。
李承晩の指導力 見破った〝共産主義の欠点〟
近代アジア史には二つの奇蹟があるといわれる。
一つはプラグマティックな中国人が共産化したこと。これは毛沢東の軍事的天才性によるところが大きい。
もう一つの奇蹟は、観念論にとらわれがちな韓国人が共産化しなかったことだ。これは共産主義の欠点を1920年代に看破していた李承晩の指導力の成果だ。
李承晩はキリスト教的自由民主主義を大韓民国憲法に取り入れ、建国理念とした。建国から60年たった今、韓国が世界の大国に伍すようになったのも、李承晩が選んだ体制と同盟国が決定的に作用した結果だ。
李承晩は韓国を自由民主主義という理念の上に建てた。朝鮮戦争の休戦が成立すると、米国に迫り韓米同盟という“繁栄の生命線”を手に入れた。朝鮮戦争が始まる直前には農地改革を断行し、地主制度に反対する農民に共産思想が広まるのを防いだ。
http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=3669&thread=01r01
60年前の8月15日、自由民主主義を掲げ、大韓民国建国の中心となった人物は誰だろうか。
建国に直接携わったのは、初代大統領の李承晩、第2代副大統領の金性洙などの韓国民主党系の人物、国会議長の申翼煕と初代副大統領の李始栄などの上海臨時政府系、米軍政庁の民政長官だった安在鴻などが挙げられる。金九や金奎植、趙素昂など、上海臨時政府の指導者も建国の陰の功労者といえる。また、日本や中国、ロシアの地で苦労と弾圧に耐えながら民族独立運動を展開した幾多の運動家も、建国の主役だった。「数え切れないほど多い」という月並みな表現が、最適なのかもしれない。
韓国憲法の前文も「(韓国は)3・1運動によって設立された大韓民国臨時政府の法統を受け継ぐ」と明記している。
誰よりも建国に貢献した人物といえば、初代大統領の李承晩だ。李は鎖国状態だった朝鮮王朝に開国を促し、米政府を相手に独立運動を展開した。解放後、米ソ冷戦に突入していく国際情勢を正確に読み、韓国政府樹立を実現した。
李承晩は過去数十年間、韓国で高く評価されてきたとはいい難い。政権末期の失政に加え、1960年のクーデターで大統領となった朴正煕が、李承晩政権を否定するために「(李政権には)不正・腐敗がはびこっていた」と印象づけたからだ。
1980年代になると、学生運動の中心となった主体思想派は、李承晩を「分断の責任者」と批判した。一般大衆だけでなく、保守派知識人でさえ「金日成だけでなく李承晩も朝鮮半島分断の当事者」という認識を持ちはじめた。
李承晩に対する批判は、金大中政権発足以降、急速に高まっていった。国民の多くは「李承晩=反民族主義者」と考えるようになった。当時、ある月刊誌が行った「尊敬する韓国の政治指導者」というリサーチで、李承晩は韓国歴代大統領で最低となる1%台の支持率だった。金日成(3%台)よりも低い数字だった。
李承晩の低支持率は、親北派の印象操作によるものといえる。工作は緻密に計算されていた。
親北派は李承晩を極端な「反共・反北朝鮮主義者」として規定。自らの“生存空間”を確保した。金大中と盧武鉉が金正日と締結した南北共同宣言などで民族和解の土台を築き「北朝鮮との共助」を訴えた。
親北派はことあるごとに「自主」を掲げ、韓米同盟などを糾弾してきた。しかし、皮肉なことに「自主」を徹底した人物こそ李承晩だった。
1945年12月28日、米英ソの3国がモスクワで会談を行い「韓国を5年間信託統治する」と決めると、韓国国内では激しい論議が交わされた。李承晩と金九、金奎植は信託統治に反対。朝鮮共産党の朴憲永らは支持に回った。
李承晩らは信託統治に激しい反対姿勢を見せ、信託統治は実現しなかった。これを機に、朝鮮半島南部で台頭していた共産主義は急速に衰退した。
米国は李承晩を危険人物と見ていた。朝鮮半島の信託統治を目指す米国にとって李の帰国が不都合だったからだ。
当時、米軍政庁長官だったジョン・ホッジ中将は「李承晩は韓国で誕生するいかなる形態の政府にも参加できない」として、約2カ月間、李を自宅軟禁した。
しかし、1947年3月のいわゆる「トルーマンドクトリン」発表により米国は反共路線をとる。同年11月には国連も朝鮮半島で総選挙(北朝鮮では実施できず)を行う案を可決した。国際情勢は、反共・独立を目指す李承晩の構想と同じ方向に流れた。
李承晩は1948年7月、圧倒的支持を得て大統領に当選した。日本によって国権を喪失してから38年、解放3年目のことだった。
李承晩の指導力 見破った〝共産主義の欠点〟
近代アジア史には二つの奇蹟があるといわれる。
一つはプラグマティックな中国人が共産化したこと。これは毛沢東の軍事的天才性によるところが大きい。
もう一つの奇蹟は、観念論にとらわれがちな韓国人が共産化しなかったことだ。これは共産主義の欠点を1920年代に看破していた李承晩の指導力の成果だ。
李承晩はキリスト教的自由民主主義を大韓民国憲法に取り入れ、建国理念とした。建国から60年たった今、韓国が世界の大国に伍すようになったのも、李承晩が選んだ体制と同盟国が決定的に作用した結果だ。
李承晩は韓国を自由民主主義という理念の上に建てた。朝鮮戦争の休戦が成立すると、米国に迫り韓米同盟という“繁栄の生命線”を手に入れた。朝鮮戦争が始まる直前には農地改革を断行し、地主制度に反対する農民に共産思想が広まるのを防いだ。
http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=3669&thread=01r01
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