金玉均
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2010/03/18 16:54 投稿番号: [3616 / 4504]
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金玉均
各種表記
ハングル: 김옥균
漢字: 金玉均
片仮名:
(現地語読み仮名) キム・オッキュン
(キム・オッギュン)
ラテン文字転写: Gim Okgyun
表・話・編・歴
金玉均(キム・オッキュン(キム・オッギュン)、きん・ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、朝鮮の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、백온)、号に古愚(コウ、고우)。本貫は安東金氏。
目次 [非表示]
1 略歴
2 没後の周辺
3 関連項目
4 外部リンクおよび参考文献
5 脚注
略歴 [編集]
忠清南道公州に生まれる。1872年に科挙文科に合格。朴珪寿、呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受ける。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機とみて、12月には日本公使の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎[1]らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた[2]。
日本では東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)[3]にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で曝された[4]。
遺髪と衣服の一部は金玉均を敬愛していた日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、葬儀を浅草寺で営んだ。さらに、犬養毅らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李筇鎔(イ・ジュンヨン)の書で以下が刻まれている。
嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)
(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)[5]
金玉均の妻子については処刑された[6]とも逃亡したとも噂され行方不明であったが、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。1894年12月、当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。後に京城に護送して朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、妻子は金玉均が暗殺されていたことも知らなかった。この資料はアジア歴史資料センターレファレンスコード:B03030202500『金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日』の発第130号 『朴泳孝復爵甲申明治17年罪犯赦免金玉均妻女発見ノ件』で見ることができる。
金玉均ノ妻女及び女子ハ忠清道沃川ヨリ護送セラレテ着京セリ抑モ金玉均ノ妻女ニ付イテハ本春已来屡々探偵ヲ尽シタルモ或イ生存シ居ルト云ヒ或イ殺害サレタリト云ヒ 其説一ナラザリシガ今般 東学党討伐ノ我軍隊ガ沃川近傍ニ於テ該巨魁ヲ捜索中端ナクモ右ノ母子二人ニ探リ当タルニ付(以下略)
>当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。
どんなだったんだろう?
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金玉均
各種表記
ハングル: 김옥균
漢字: 金玉均
片仮名:
(現地語読み仮名) キム・オッキュン
(キム・オッギュン)
ラテン文字転写: Gim Okgyun
表・話・編・歴
金玉均(キム・オッキュン(キム・オッギュン)、きん・ぎょくきん、1851年2月23日(旧暦1月23日) - 1894年3月28日)は、朝鮮の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。字は伯温(ペゴン、백온)、号に古愚(コウ、고우)。本貫は安東金氏。
目次 [非表示]
1 略歴
2 没後の周辺
3 関連項目
4 外部リンクおよび参考文献
5 脚注
略歴 [編集]
忠清南道公州に生まれる。1872年に科挙文科に合格。朴珪寿、呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。1882年2月から7月まで日本に遊学し、福澤諭吉の支援を受ける。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。1883年には借款交渉のため日本へ渡り、翌1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機とみて、12月には日本公使の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎[1]らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた[2]。
日本では東京や札幌、小笠原諸島などを転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)[3]にピストルで暗殺された。遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれ凌遅刑に処された。その遺体はバラバラにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で曝された[4]。
遺髪と衣服の一部は金玉均を敬愛していた日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、葬儀を浅草寺で営んだ。さらに、犬養毅らの支援で東京の青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李筇鎔(イ・ジュンヨン)の書で以下が刻まれている。
嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死(以下略)
(ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死)[5]
金玉均の妻子については処刑された[6]とも逃亡したとも噂され行方不明であったが、日本は探偵を送ってその捜索を始めた。1894年12月、当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。後に京城に護送して朴泳孝、徐光範が預かることとなったが、妻子は金玉均が暗殺されていたことも知らなかった。この資料はアジア歴史資料センターレファレンスコード:B03030202500『金玉均謀殺並ニ兇行者洪鐘宇ニ関スル件/4 明治27年4月16日から明治27年12月21日』の発第130号 『朴泳孝復爵甲申明治17年罪犯赦免金玉均妻女発見ノ件』で見ることができる。
金玉均ノ妻女及び女子ハ忠清道沃川ヨリ護送セラレテ着京セリ抑モ金玉均ノ妻女ニ付イテハ本春已来屡々探偵ヲ尽シタルモ或イ生存シ居ルト云ヒ或イ殺害サレタリト云ヒ 其説一ナラザリシガ今般 東学党討伐ノ我軍隊ガ沃川近傍ニ於テ該巨魁ヲ捜索中端ナクモ右ノ母子二人ニ探リ当タルニ付(以下略)
>当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が忠清道沃川近傍で金玉均の妻と女子を偶然発見して保護した。その時の2人は実に憐れむべき姿だったという。
どんなだったんだろう?
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