<コラム>衝突と共感
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2008/05/22 23:22 投稿番号: [59875 / 60270]
国際政治といえば、力と力のぶつかりあいだというのが常識かもしれない。力を背景にして、相手の国に要求を突きつける。もちろん、力といっても軍事力のみが力ではない。場合によっては経済力が物を言う。言うことをきかなければ制裁をするぞという「ムチ」のアプローチもあれば、言うことをきけば援助をするという「アメ」のアプローチもある。
このような国際政治の駆け引きにおいて、それぞれの国民が動員されることもある。国民が自国の交渉者を応援し、相手国の交渉者を非難する、そのために相手国へのデモンストレーションが行われる場合もある。しかし、冷徹な国際政治の駆け引きこそが、国際政治の本質であるとすれば、このような国民の感情の表出は二義的であるとみられる。
果たして、このような国際政治の「常道」は、現在の国際政治を正確に表しているだろうか。もちろん、北朝鮮との核問題に関する交渉をみていると、まさに国際政治とは、このようなものだ、と思わざるを得ない。しかし、現代の国際政治のすべてが、このような冷徹な損得計算とアメとムチの交渉に還元されるのだろうか。
筆者には、どうもそうとは思えない。グローバリゼーションが進み、国と国との交流が進み、その結果、人と人の交流もすすんでいくと、狭い意味の国益に還元されない人々の感情もまた、国際政治を動かしているように思える。国内政治で、人々の感情が政治を動かすことは常識である。民主主義国において、地域感情に配慮しない政治家は、国民の支持を集めることはできない。他方、国内における地域間の感情のぶつかり合いをうまく調整できない政治家もまた、偉大な指導者とはなれない。さらにまた、国民の気持ちを積極的な方向に向けさせることのできる政治家は、大政治家への道を歩んでいるといってよい。今や、国際政治にも、このような傾向が出現しつつあるのではないか。
しかし、最近の東アジアの国際政治を観察していると、感情の国際政治は、まずもって、反感・反発の国際政治として現れたように思われる。日本の一部の保守ナショナリストたちは、歴史認識問題に対する隣国の批判に対して、反発する形で彼らの運動を進めてきた。小泉首相が最初に靖国神社に参拝する約束した理由は、必ずしも隣国への反発が主なものではなかったかもしれないが、中国や韓国から反発が広がると、かえって、外国からの圧力に屈するわけにはいかないとして、参拝を強行してきたし、これを支持した日本国民も多かった。
いうまでもなく、靖国参拝に反発した韓国国民や中国国民は、これによって、彼らの利益や安全が損なわれたから反発したわけではない。韓国国民や中国国民の多くは、真に彼らの感情が傷つけられたから反発したのであった。一時期の日韓関係や日中関係は、とくに物質的な意味での利益をめぐる争点で悪化したのではなく、シンボリックな争点を巡って反発が反発を生み出したのであった。
しかし、現代の国際政治におけるシンボリックな問題の浮上は、このように否定的なものばかりではない。今や、外国の問題であっても、ある種の重大な問題は、自らのものと変わらないシンボリックな重要性を持つに至った。2004年末のインド洋の大津波は、国際的な支援の動きを生み出したし、今月、中国の四川省を襲った大地震は、世界中とわけ東アジアの人々の間に同情と連帯の気持ちを生み出している。
地震の救援それ自体は、物理的な財の移転であったり、人的貢献であるが、その意味はきわめてシンボリックなものである。たとえ、韓国や日本が今度の四川大地震に対して、送った援助隊の人数がそれぞれ数十人を越えない規模であったとして、それぞれともに韓国民や日本国民の中国における被害者への同情と連帯の気持ちを表している。そして、このような国境を越える共感・同感の動きもまた、国際政治を動かすのである。
安全と利益をめぐる国際政治がなくなるわけはない。安全や利益のためであれば、ときに国民の感情が制約されるということもあり続けるであろう。しかし、今や、国民の感情もまた国際政治の重要な要素であるとの認識をもたない政治家は、大政治家とはいえない。感情の国際政治は、当面はシンボリックな面から始まる。しかし、危険性がないわけではない。とりわけ、反発と反感の国際政治は、シンボリックな面にとどまらない危険性を持っている。また、感情の国際政治に期待のもてる側面もないわけではない。同情と共感の国際政治は、将来の国境を越えた平和な交流の一大基礎ともなりうる可能性を秘めているからである。
田中明彦・東京大教授
中央日報 Joins.com
2008.05.20 14:52:19
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=100220&servcode=100§cod
このような国際政治の駆け引きにおいて、それぞれの国民が動員されることもある。国民が自国の交渉者を応援し、相手国の交渉者を非難する、そのために相手国へのデモンストレーションが行われる場合もある。しかし、冷徹な国際政治の駆け引きこそが、国際政治の本質であるとすれば、このような国民の感情の表出は二義的であるとみられる。
果たして、このような国際政治の「常道」は、現在の国際政治を正確に表しているだろうか。もちろん、北朝鮮との核問題に関する交渉をみていると、まさに国際政治とは、このようなものだ、と思わざるを得ない。しかし、現代の国際政治のすべてが、このような冷徹な損得計算とアメとムチの交渉に還元されるのだろうか。
筆者には、どうもそうとは思えない。グローバリゼーションが進み、国と国との交流が進み、その結果、人と人の交流もすすんでいくと、狭い意味の国益に還元されない人々の感情もまた、国際政治を動かしているように思える。国内政治で、人々の感情が政治を動かすことは常識である。民主主義国において、地域感情に配慮しない政治家は、国民の支持を集めることはできない。他方、国内における地域間の感情のぶつかり合いをうまく調整できない政治家もまた、偉大な指導者とはなれない。さらにまた、国民の気持ちを積極的な方向に向けさせることのできる政治家は、大政治家への道を歩んでいるといってよい。今や、国際政治にも、このような傾向が出現しつつあるのではないか。
しかし、最近の東アジアの国際政治を観察していると、感情の国際政治は、まずもって、反感・反発の国際政治として現れたように思われる。日本の一部の保守ナショナリストたちは、歴史認識問題に対する隣国の批判に対して、反発する形で彼らの運動を進めてきた。小泉首相が最初に靖国神社に参拝する約束した理由は、必ずしも隣国への反発が主なものではなかったかもしれないが、中国や韓国から反発が広がると、かえって、外国からの圧力に屈するわけにはいかないとして、参拝を強行してきたし、これを支持した日本国民も多かった。
いうまでもなく、靖国参拝に反発した韓国国民や中国国民は、これによって、彼らの利益や安全が損なわれたから反発したわけではない。韓国国民や中国国民の多くは、真に彼らの感情が傷つけられたから反発したのであった。一時期の日韓関係や日中関係は、とくに物質的な意味での利益をめぐる争点で悪化したのではなく、シンボリックな争点を巡って反発が反発を生み出したのであった。
しかし、現代の国際政治におけるシンボリックな問題の浮上は、このように否定的なものばかりではない。今や、外国の問題であっても、ある種の重大な問題は、自らのものと変わらないシンボリックな重要性を持つに至った。2004年末のインド洋の大津波は、国際的な支援の動きを生み出したし、今月、中国の四川省を襲った大地震は、世界中とわけ東アジアの人々の間に同情と連帯の気持ちを生み出している。
地震の救援それ自体は、物理的な財の移転であったり、人的貢献であるが、その意味はきわめてシンボリックなものである。たとえ、韓国や日本が今度の四川大地震に対して、送った援助隊の人数がそれぞれ数十人を越えない規模であったとして、それぞれともに韓国民や日本国民の中国における被害者への同情と連帯の気持ちを表している。そして、このような国境を越える共感・同感の動きもまた、国際政治を動かすのである。
安全と利益をめぐる国際政治がなくなるわけはない。安全や利益のためであれば、ときに国民の感情が制約されるということもあり続けるであろう。しかし、今や、国民の感情もまた国際政治の重要な要素であるとの認識をもたない政治家は、大政治家とはいえない。感情の国際政治は、当面はシンボリックな面から始まる。しかし、危険性がないわけではない。とりわけ、反発と反感の国際政治は、シンボリックな面にとどまらない危険性を持っている。また、感情の国際政治に期待のもてる側面もないわけではない。同情と共感の国際政治は、将来の国境を越えた平和な交流の一大基礎ともなりうる可能性を秘めているからである。
田中明彦・東京大教授
中央日報 Joins.com
2008.05.20 14:52:19
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=100220&servcode=100§cod