沖縄戦・集団自決、「軍の関与」確信=
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/07/04 17:10 投稿番号: [58976 / 60270]
記者の目:松本光央(西部報道部)
◇国は歴史を矮小化するな−−平和希求「沖縄の声」を
太平洋戦争末期、「沖縄戦」の組織的抵抗が終わった6月23日の「沖縄慰霊の日」を前に、連載「集団自決を追う〜沖縄戦と教科書」(西部本社版)の取材で現地を歩いた。住民の集団自決の「軍命」があったという証言は得られなかったものの生還者の話を聞き、「軍の関与」を確信した。一部地域での軍命の有無に焦点を絞り、教科書を変えようとする政府は、集団自決の実相を矮小(わいしょう)化している気がする。
沖縄本島・那覇市の西約40キロに浮かぶ慶良間(けらま)列島の一つ、渡嘉敷(とかしき)島。周囲約25キロの島は、サンゴ礁に囲まれ、夏は観光客でにぎわう。
集団自決の「現場」は、島中央部のうっそうとした森から下った谷にある。私が訪ねた時は梅雨の雨上がりで、地元の人に「ハブが出る」と言われ、森の入り口で手を合わせた。その後、生存者の一人、小嶺正雄さん(77)に話を聞いた。
45年3月27日、島に米軍が上陸した。翌日、現場で住民は次々と手りゅう弾を爆発させ「自決」した。犠牲者は329人。当時15歳の小嶺さんも家族を集め、手りゅう弾2個を立ち木に打ちつけた。逃げる途中、沖縄守備軍が地元で召集した防衛隊員が落としたのを拾ったものだ。しかし不発に終わり、周囲では死ねなかった住民があらゆる手段で殺し合った。鍬(くわ)や石、木の枝、ひも……。正気を取り戻した小嶺さんは逃げた−−。静かな口調で語られる惨状に息をのんだ。
戦後、息子4人と孫8人に恵まれた。自宅居間には家族写真が飾ってある。「あの時、手りゅう弾が爆発していれば、こうはならなかった」と振り返る。
当時は「米軍に捕まると女は強姦(ごうかん)され、男は戦車にひき殺される」「生きて虜囚のはずかしめを受けず」などと言われ、島には「軍官民共生共死」の思想があった。隣の慶留間(げるま)島でも取材したが、愛するが故に殺し合った事実の重みから、多くの人は今も固く口を閉ざす。小嶺さんは例外的存在で、かつて「軍の命令があった」と証言した人はすでに亡くなっていた。
軍命について、小嶺さんは「分からない」と言いつつ、手りゅう弾を住民が持っていたことに触れ「防衛隊員が配ったと話した人もいた。あったとしか考えられない」と強調した。
集団自決だけでなく、沖縄では多くの住民が旧軍に壕(ごう)を追われ「鉄の暴風」と形容された戦火の下を逃げ惑った。「それは死ねというのと同じだった」とお年寄りは言う。スパイ容疑や、投降を口にしたため殺害された人もいた。
来年の高校歴史教科書から集団自決を巡る「日本軍の強制性」に関する記述が削除・修正される。「集団自決は軍の命令だったのではないとの見方が定着しつつある」(文部科学省)というのが理由だ。根拠の一つは、作家の大江健三郎氏が「沖縄ノート」で指摘した、渡嘉敷、座間味(ざまみ)両島に駐屯していた日本軍が出したとされる軍命について「命令していない」と元隊長やその遺族が民事訴訟を起こしたことなどがある。
こうした動きに、沖縄は「歴史の歪曲(わいきょく)だ」として県議会を含む全42自治体議会が文科省の検定意見撤回を求める意見書を可決するなど、反発が強まっている。しかし、集団自決が慶良間列島だけでなく、沖縄本島などでも起きた事実を含めて、声はなかなか本土には届かない。
私は、沖縄の声は被爆地、長崎、広島と同じ平和発信力があると思う。前任地の長崎で、長崎市長が8月9日の原爆の日に読む「平和宣言文」の起草過程を取材した。市長を委員長とする起草委員会が会合を重ね、被爆者や識者、市民の意見を入れた文案は、まさに「長崎の声」だった。沖縄県知事が「慰霊の日」に読む平和宣言は県庁内の検討委員会が素案を作り、知事が決める。沖縄戦の実相や平和を希求する思いを盛り込むためにも「集団自決」の生還者や沖縄戦体験者に起草段階から参加してもらい「沖縄の声」を作ったらどうだろう。
今後、教科書の書き換えにより、「沖縄の人たちが国のために家族の命を奪い、自ら命をささげた」という美談にすり替えられる恐れもないとはいえない。それが安倍晋三首相が目指す「美しい国、日本」なら大間違いだ。平和な社会を次世代に引き継ぐためにも、私たちは歴史を曲げず、過去に学ぶ必要がある。
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/archive/news/2007/07/20070704ddm004070018000c.html
◇国は歴史を矮小化するな−−平和希求「沖縄の声」を
太平洋戦争末期、「沖縄戦」の組織的抵抗が終わった6月23日の「沖縄慰霊の日」を前に、連載「集団自決を追う〜沖縄戦と教科書」(西部本社版)の取材で現地を歩いた。住民の集団自決の「軍命」があったという証言は得られなかったものの生還者の話を聞き、「軍の関与」を確信した。一部地域での軍命の有無に焦点を絞り、教科書を変えようとする政府は、集団自決の実相を矮小(わいしょう)化している気がする。
沖縄本島・那覇市の西約40キロに浮かぶ慶良間(けらま)列島の一つ、渡嘉敷(とかしき)島。周囲約25キロの島は、サンゴ礁に囲まれ、夏は観光客でにぎわう。
集団自決の「現場」は、島中央部のうっそうとした森から下った谷にある。私が訪ねた時は梅雨の雨上がりで、地元の人に「ハブが出る」と言われ、森の入り口で手を合わせた。その後、生存者の一人、小嶺正雄さん(77)に話を聞いた。
45年3月27日、島に米軍が上陸した。翌日、現場で住民は次々と手りゅう弾を爆発させ「自決」した。犠牲者は329人。当時15歳の小嶺さんも家族を集め、手りゅう弾2個を立ち木に打ちつけた。逃げる途中、沖縄守備軍が地元で召集した防衛隊員が落としたのを拾ったものだ。しかし不発に終わり、周囲では死ねなかった住民があらゆる手段で殺し合った。鍬(くわ)や石、木の枝、ひも……。正気を取り戻した小嶺さんは逃げた−−。静かな口調で語られる惨状に息をのんだ。
戦後、息子4人と孫8人に恵まれた。自宅居間には家族写真が飾ってある。「あの時、手りゅう弾が爆発していれば、こうはならなかった」と振り返る。
当時は「米軍に捕まると女は強姦(ごうかん)され、男は戦車にひき殺される」「生きて虜囚のはずかしめを受けず」などと言われ、島には「軍官民共生共死」の思想があった。隣の慶留間(げるま)島でも取材したが、愛するが故に殺し合った事実の重みから、多くの人は今も固く口を閉ざす。小嶺さんは例外的存在で、かつて「軍の命令があった」と証言した人はすでに亡くなっていた。
軍命について、小嶺さんは「分からない」と言いつつ、手りゅう弾を住民が持っていたことに触れ「防衛隊員が配ったと話した人もいた。あったとしか考えられない」と強調した。
集団自決だけでなく、沖縄では多くの住民が旧軍に壕(ごう)を追われ「鉄の暴風」と形容された戦火の下を逃げ惑った。「それは死ねというのと同じだった」とお年寄りは言う。スパイ容疑や、投降を口にしたため殺害された人もいた。
来年の高校歴史教科書から集団自決を巡る「日本軍の強制性」に関する記述が削除・修正される。「集団自決は軍の命令だったのではないとの見方が定着しつつある」(文部科学省)というのが理由だ。根拠の一つは、作家の大江健三郎氏が「沖縄ノート」で指摘した、渡嘉敷、座間味(ざまみ)両島に駐屯していた日本軍が出したとされる軍命について「命令していない」と元隊長やその遺族が民事訴訟を起こしたことなどがある。
こうした動きに、沖縄は「歴史の歪曲(わいきょく)だ」として県議会を含む全42自治体議会が文科省の検定意見撤回を求める意見書を可決するなど、反発が強まっている。しかし、集団自決が慶良間列島だけでなく、沖縄本島などでも起きた事実を含めて、声はなかなか本土には届かない。
私は、沖縄の声は被爆地、長崎、広島と同じ平和発信力があると思う。前任地の長崎で、長崎市長が8月9日の原爆の日に読む「平和宣言文」の起草過程を取材した。市長を委員長とする起草委員会が会合を重ね、被爆者や識者、市民の意見を入れた文案は、まさに「長崎の声」だった。沖縄県知事が「慰霊の日」に読む平和宣言は県庁内の検討委員会が素案を作り、知事が決める。沖縄戦の実相や平和を希求する思いを盛り込むためにも「集団自決」の生還者や沖縄戦体験者に起草段階から参加してもらい「沖縄の声」を作ったらどうだろう。
今後、教科書の書き換えにより、「沖縄の人たちが国のために家族の命を奪い、自ら命をささげた」という美談にすり替えられる恐れもないとはいえない。それが安倍晋三首相が目指す「美しい国、日本」なら大間違いだ。平和な社会を次世代に引き継ぐためにも、私たちは歴史を曲げず、過去に学ぶ必要がある。
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/kishanome/archive/news/2007/07/20070704ddm004070018000c.html