Re: xs君もっと頑張れ<大茶碗君
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/12/01 23:04 投稿番号: [57738 / 60270]
教えて。
「南京虐殺」
極東軍事裁判では、死者20〜30万。
中国側発表は死者30万からスタートして、近年は60万に達する「成長力」だけど。
南京戦直前の「南京市人口」は・・・
・リリー・アベック女史/ドイツ・フランクフルター紙特派員談
「南京は自分の脱出時には、ようやく、15万人を数える小都市に成り下がっていった」
(昭和13(1938)年・2月「南京脱出記」)
・張群思少佐/国民党軍南京衛戊軍。日本軍の捕虜となる
「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」
(昭和13(1938)年)
・劉啓雄少将/国民党軍南京衛戊軍・雨花台陣地守備旅団長。後、汪兆銘政府軍官学校長
「市民数概ね20万」
(昭和13(1938)年)
(参考)
・松井石根陸軍大将/上海派遣軍司令官
「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」
(陣中日記)
(参考2)
・極東国際軍事裁判にて
ロヴィン弁護士:
「南京に於て殺害された数は30万となっておりますが、私の承知している範囲に於きましては南京の人口は20万であります」
ウエッブ裁判長:
「今はそれを持ち出す時ではありません」
(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)
ちなみに「今は」ではなく、「これ以後、一切」「南京の人口」を持ち出すことは却下される。
で、この事から、南京の当時の人口は最小10万〜最大20万程だよね?
で、南京戦終了後の人口は、
・国際委員会公式文書:
「20万」T6号資料( 1937年12月17日)〜T14号資料(1937年12月27日)
「25〜30万」T19号資料(1938年1月14日)
「25万」J43号資料(1938年1月17日)〜J68号資料(1938年2月10日)
・国際救済委員会調査・南京地区における戦争被害
「22万1150人」(1937年12月〜1938年3月)
・アメリカ大使館報告(エスピー報告書)
「20万〜25万」(1938年1月)
・ドイツ大使館報告(ラーベ報告書)
「20万」(1938年1月)
・極東国際軍事裁判検察側証人証言(許伝音/M・S・ベイツ/R・O・ウィルソン)
「20万〜30万」(許伝音 1946年7月26日)
「22万1000人」(M・S・ベイツ 1946年7月29日)
「20万」(R・O・ウィルソン 1946年7月25日)
で、概ね20万〜25万。最大で30万。
この人口は、南京攻略完了(1937年12月13日)の直後からカウントされ始めた「南京市の人口」
*参考までに「国民党軍南京衛戊軍総兵力」は「3万5千〜5万」
南京衛戊軍は半数以上が後方友軍地域に逃げ戻っているから、捕虜・戦傷者・行方不明を「戦後の南京市人口」に無理やり含めても、その数は1万〜2万5千
戦前は人口10万〜20万
戦後すぐが人口20万〜30万
この数字上のパラドックス、教えてよ?
「南京虐殺」
極東軍事裁判では、死者20〜30万。
中国側発表は死者30万からスタートして、近年は60万に達する「成長力」だけど。
南京戦直前の「南京市人口」は・・・
・リリー・アベック女史/ドイツ・フランクフルター紙特派員談
「南京は自分の脱出時には、ようやく、15万人を数える小都市に成り下がっていった」
(昭和13(1938)年・2月「南京脱出記」)
・張群思少佐/国民党軍南京衛戊軍。日本軍の捕虜となる
「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」
(昭和13(1938)年)
・劉啓雄少将/国民党軍南京衛戊軍・雨花台陣地守備旅団長。後、汪兆銘政府軍官学校長
「市民数概ね20万」
(昭和13(1938)年)
(参考)
・松井石根陸軍大将/上海派遣軍司令官
「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」
(陣中日記)
(参考2)
・極東国際軍事裁判にて
ロヴィン弁護士:
「南京に於て殺害された数は30万となっておりますが、私の承知している範囲に於きましては南京の人口は20万であります」
ウエッブ裁判長:
「今はそれを持ち出す時ではありません」
(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)
ちなみに「今は」ではなく、「これ以後、一切」「南京の人口」を持ち出すことは却下される。
で、この事から、南京の当時の人口は最小10万〜最大20万程だよね?
で、南京戦終了後の人口は、
・国際委員会公式文書:
「20万」T6号資料( 1937年12月17日)〜T14号資料(1937年12月27日)
「25〜30万」T19号資料(1938年1月14日)
「25万」J43号資料(1938年1月17日)〜J68号資料(1938年2月10日)
・国際救済委員会調査・南京地区における戦争被害
「22万1150人」(1937年12月〜1938年3月)
・アメリカ大使館報告(エスピー報告書)
「20万〜25万」(1938年1月)
・ドイツ大使館報告(ラーベ報告書)
「20万」(1938年1月)
・極東国際軍事裁判検察側証人証言(許伝音/M・S・ベイツ/R・O・ウィルソン)
「20万〜30万」(許伝音 1946年7月26日)
「22万1000人」(M・S・ベイツ 1946年7月29日)
「20万」(R・O・ウィルソン 1946年7月25日)
で、概ね20万〜25万。最大で30万。
この人口は、南京攻略完了(1937年12月13日)の直後からカウントされ始めた「南京市の人口」
*参考までに「国民党軍南京衛戊軍総兵力」は「3万5千〜5万」
南京衛戊軍は半数以上が後方友軍地域に逃げ戻っているから、捕虜・戦傷者・行方不明を「戦後の南京市人口」に無理やり含めても、その数は1万〜2万5千
戦前は人口10万〜20万
戦後すぐが人口20万〜30万
この数字上のパラドックス、教えてよ?
これは メッセージ 57712 (suyongsaram さん)への返信です.