>戦死した巨人軍の沢村:長州と会津
投稿者: shinkuuboakagi 投稿日時: 2001/05/23 23:29 投稿番号: [4762 / 60270]
たしか会津城攻撃の参謀は土佐の板垣退助でしたね。部隊も長州のほか、薩摩、土佐そのほか2,3の藩が参加したはず。この意味では長州だけが会津の子孫に嫌われるのは不合理。
それよりも、会津の武士とその家族は転封されて(新設の斗南藩へ)、会津からいなくなったはず。その後の会津市民が長州を恨むのは筋違い。戊辰戦争後長州の意向で会津藩士達が苦難の道を歩んだのはたしかでしょうが、その後の会津市民が怨念を持つと言うのは、かれらが会津藩の家臣団と運命共同体感をもっていたばあいのみ。しかしどうもこれは史実に反するようです。以前読んだ本によると、会津の町民、農民達は目の前の戦争を、あれは侍同士の戦争としてぼんやりと眺めていたそうですから。その子孫が長州を恨むのは不合理。(元会津藩士の苦難については、ある明治人の記録・柴五郎の遺書ー中公新書)
長州にすれば、会津は禁門の変で久坂玄瑞等多数が死んだうらみがあるでしょうし、会津憎しはしかたがないかなとおもいます。
u氏が山口県人であれば、長州藩のパトロン隊のことはご存知ですよね。第二次長州遠征(四境戦争)時の女子火薬製造部隊。後の女子挺身隊の嚆矢。最盛期には千人もの女性達が働いていたとか。あの戦争は長州藩にとっては「国民戦争」だったからあれだけ総ての人が団結したのですね。
会津藩でも会津女隊などがあったようですが、その団結や戦意にかけてはパトロン隊の足下にも及ばないと書いている本がありました。なお、私の理解に誤解があれば会津の方の投稿おねがいします。
これは メッセージ 4732 (u26699 さん)への返信です.
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