○李氏朝鮮時代に完成した属国根性
投稿者: tairo_jokun 投稿日時: 2004/10/26 11:37 投稿番号: [40256 / 60270]
○李氏朝鮮時代に完成した属国根性
韓国人が自国史の歴史認識について、最も忌み嫌うものの一つは、中華帝国によって朝鮮の歴史が決められて来たという「他律史観」である。「事大主義」という言葉も、余り好きではない様だ。これらの用語は、自国史の主体性に関わるものだからだろう。史実とは関係なく、自律性が欠けている事を、只管(ひたすら)否定したがるのだ。
その為、1000年以上に亘る中華帝国との主従関係を無理やりに「友好関係」「同盟関係」等と主張するのだろう。併し、精彩を欠く半島史は、冷厳な目で見れば他律性以外の何が在ると言うのか。
朝鮮の歴代王朝がどの周辺諸国よりも忠実に中華帝国の属国で在り続けたという事と、「大中華」に奉仕する「小中華」である事を誇りに思っていたのは確かである。では、何故、何時から朝鮮は其処まで属国である事に誇りを感じる様に成ったのだろうか。
中国の正史には、高句麗、新羅、百済の三国時代から半島は中国の冊封を受けたとあり、まるでこの頃から半島に押込められている様な印象を受けるが、これはあくまでも名目的なものである。中華帝国と朝鮮半島の宗属関係は未だ確立されておらず、自立性らしきものはあった。
何故なら、中華帝国歴代王朝は、最盛期にあっても其の勢力が長城を越えた事は滅多に無かったからである。仮に超える事があっても、一時的なものに過ぎない。そもそも、長城以北の異域は「関外」または「塞外」と呼ばれ、中国から忌み嫌われた地域だった。
前章で述べた様に、朝鮮半島が中華帝国と宗属関係になったのは、統一新羅の時代からだった。唐の援助によって半島を統一できた為、自ら「大唐国新羅郡」と名乗って卑下し、天朝への忠誠を誓ったのである。近代韓国の「文学の父」と言われる李光洙も、半島の事大主義が始ったのは此の時であると唱えている。
唐からして見ても、渤海までを「渤海郡国」として封じていたし、漢の時代にさえ武帝が「四郡」を朝鮮半島に置いたと「史記」にもあるのに、大唐帝国の最盛期に統一新羅を属国としない訳には行かない、といった時代背景もあっただろう。
以後、中国の東方の藩屏として中華歴代王朝の興亡に振り回される事と成る。そして、次第に主体性を維持する事は出来なくなり、止むを得ず事大主義が民ー性として定着、自律性を確立する事が出来なくなったのだ。よって、新羅に助力して三国を統一させた唐が滅べば、新羅も滅ぶ。
高麗朝は、中国大陸の興亡の影響が比較的少なかったものの、モンゴル人の元王朝が滅べば高麗朝が滅び、明が清に滅ぼされれば李朝は清に事大を乗り換え、そして清が滅べば李朝も滅ぶ。こうして、半島王朝の興亡は大陸王朝の興亡と連動しているのだ。これが一つの史実である。
だが、朝鮮半島と中華帝国の宗属関係にも、時代によって強弱があった。統一新羅やその後の高麗朝までは、中華帝国から冊封され朝貢関係にあったものの、比較的自主性は守られていた。
中原の王朝が朝鮮の内政にまで干渉し始めたのは、元からである。併し、この時もまだ、大モンゴル帝国が世界国家として統監政治を行ったに過ぎず、実際には内面指導のみの緩い支配であった。
本格的に中華の支配を受けるのは、大明帝国時代の李朝からである。李朝の太祖李成桂は、1392年に「易姓革命」と称して高麗朝の王権を簒奪したが、実権支配の獲得を明の太祖に認知して貰う為、国家主権を全て明に売り渡し、明の属国と決め込んだのだった。
つまり朝鮮半島の事大主義は、統一新羅の時代に唐の属国に成った事から始り、元時代の内面指導を経て、李朝に於いて身も心も属国意識に染まる事で完成したものである。
韓国人が自国史の歴史認識について、最も忌み嫌うものの一つは、中華帝国によって朝鮮の歴史が決められて来たという「他律史観」である。「事大主義」という言葉も、余り好きではない様だ。これらの用語は、自国史の主体性に関わるものだからだろう。史実とは関係なく、自律性が欠けている事を、只管(ひたすら)否定したがるのだ。
その為、1000年以上に亘る中華帝国との主従関係を無理やりに「友好関係」「同盟関係」等と主張するのだろう。併し、精彩を欠く半島史は、冷厳な目で見れば他律性以外の何が在ると言うのか。
朝鮮の歴代王朝がどの周辺諸国よりも忠実に中華帝国の属国で在り続けたという事と、「大中華」に奉仕する「小中華」である事を誇りに思っていたのは確かである。では、何故、何時から朝鮮は其処まで属国である事に誇りを感じる様に成ったのだろうか。
中国の正史には、高句麗、新羅、百済の三国時代から半島は中国の冊封を受けたとあり、まるでこの頃から半島に押込められている様な印象を受けるが、これはあくまでも名目的なものである。中華帝国と朝鮮半島の宗属関係は未だ確立されておらず、自立性らしきものはあった。
何故なら、中華帝国歴代王朝は、最盛期にあっても其の勢力が長城を越えた事は滅多に無かったからである。仮に超える事があっても、一時的なものに過ぎない。そもそも、長城以北の異域は「関外」または「塞外」と呼ばれ、中国から忌み嫌われた地域だった。
前章で述べた様に、朝鮮半島が中華帝国と宗属関係になったのは、統一新羅の時代からだった。唐の援助によって半島を統一できた為、自ら「大唐国新羅郡」と名乗って卑下し、天朝への忠誠を誓ったのである。近代韓国の「文学の父」と言われる李光洙も、半島の事大主義が始ったのは此の時であると唱えている。
唐からして見ても、渤海までを「渤海郡国」として封じていたし、漢の時代にさえ武帝が「四郡」を朝鮮半島に置いたと「史記」にもあるのに、大唐帝国の最盛期に統一新羅を属国としない訳には行かない、といった時代背景もあっただろう。
以後、中国の東方の藩屏として中華歴代王朝の興亡に振り回される事と成る。そして、次第に主体性を維持する事は出来なくなり、止むを得ず事大主義が民ー性として定着、自律性を確立する事が出来なくなったのだ。よって、新羅に助力して三国を統一させた唐が滅べば、新羅も滅ぶ。
高麗朝は、中国大陸の興亡の影響が比較的少なかったものの、モンゴル人の元王朝が滅べば高麗朝が滅び、明が清に滅ぼされれば李朝は清に事大を乗り換え、そして清が滅べば李朝も滅ぶ。こうして、半島王朝の興亡は大陸王朝の興亡と連動しているのだ。これが一つの史実である。
だが、朝鮮半島と中華帝国の宗属関係にも、時代によって強弱があった。統一新羅やその後の高麗朝までは、中華帝国から冊封され朝貢関係にあったものの、比較的自主性は守られていた。
中原の王朝が朝鮮の内政にまで干渉し始めたのは、元からである。併し、この時もまだ、大モンゴル帝国が世界国家として統監政治を行ったに過ぎず、実際には内面指導のみの緩い支配であった。
本格的に中華の支配を受けるのは、大明帝国時代の李朝からである。李朝の太祖李成桂は、1392年に「易姓革命」と称して高麗朝の王権を簒奪したが、実権支配の獲得を明の太祖に認知して貰う為、国家主権を全て明に売り渡し、明の属国と決め込んだのだった。
つまり朝鮮半島の事大主義は、統一新羅の時代に唐の属国に成った事から始り、元時代の内面指導を経て、李朝に於いて身も心も属国意識に染まる事で完成したものである。
これは メッセージ 1 (you_beaut さん)への返信です.