猿島の古代史歪曲
投稿者: you_beaut 投稿日時: 2001/05/01 00:01 投稿番号: [3249 / 60270]
>百済は阿華王の王子直支(のちの第18代腆支王)のような重要な人物
(それも次期王位継承者)を人質として日本に出さなければならなかったんだ?
オマエの詭弁には既に答えたが、今夜、偶然、
KBSーTVの番組、「歴史スペシャル」にオマエの引用した部分について
放送したのをみて、ここに写す。
日本書紀に書いている「人質」って何だろ?
倭より先進文化を誇っていた三国の一国、百済が倭に人質?との疑問が解けた。
確かに百済は偶々、倭に王様の弟ないし近い親戚を輪に派遣した時期があった。
ところで、百済が倭に派遣したときは、いつも百済が対外的で困ってる時期と一致した。
例えば、高句麗と新羅が連合、百済を孤立させ、攻撃したり、
新羅と唐が連合、両側から圧迫したときに限って、
倭に派遣したのだ。
もう一つ面白いのは、そのときはいつも、
学者、芸術家、技術者を帯同したとのことだ。
いわば、百済が孤立され、軍事力が必要になったとき、
倭との物物交換で百済の先進技術を倭に伝える代わり、
倭の兵力を要求しに行ったのだ。いわば、倭の文化宗主国、百済が
倭から傭兵を使ってたわけだ。
傭兵代は百済からの先進学問と技術伝達であった。
最後に派遣された「扶余豊」という百済の王子は百済最後の王様の息子で、
倭に30年間留まっていて倭王の教師の役割をした。
百済の滅亡時期(西紀660)から3年後、
羅唐連合軍に対抗した百済復興軍を助けに派兵された2万5千名の倭傭兵は、
白村江(現在の東辰江)戦闘で連合軍に惨憺に敗北した。
当時の倭王は百済から亡命した貴族(ソノガ家門)の影響の下にいたので
可能な派兵だった。
三国の中でも百済と密接な関係を持った倭は古代先進技術、学問など文化輸入を、
ほぼ全的に百済に依存していたのだ。
白村江戦闘で負けた倭は福岡、瀬戸内海に面した海岸に城を築城した。
大陸からの侵略が怖くて防ぐためだった。
もっと面白いのはあのときの城は、
全部百済から来た建築技術者が設計、築城したので、当時の倭の様式でなく、
百済式の城だったそうだ。今も残ってるそうだね。
このように、猿島は何でも逆に歪曲してきたのだ。
「任邦日本府の支配説」も伽耶によった倭への支配を正反対に歪曲したのが明らかになったはずだ。
情けない猿島よ!
これは メッセージ 2989 (CDU_CSU さん)への返信です.
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