>金日成の抗日パルチザン活動は
投稿者: m1944_762 投稿日時: 2003/01/13 11:56 投稿番号: [28940 / 60270]
>現在、韓国の学会でも認めている.
>誇張はあっても
>作り話ではない.
誇張されすぎ、作りすぎは既に明らかになってるんですが。
青山里の大勝は、わが独立軍の活動の中でも一番光輝く大きな勝利であった。
日本軍は、鳳梧洞の敗北の報復をしようと満州に大規模な軍隊を出動させた。
この時、独立軍を指揮していた金佐鎭は、日本軍を青山里渓谷に引き込んだ。
そして、2千8百数名の独立軍は総勢5万名余りにもなる日本軍を包囲し
険しい山道をすばやく移動しながら攻撃し、3千3百名余りの日本軍を射殺し、負傷させた。
青山里の大勝は、実にわが民族の意気をよく表した独立闘争であった。
http://village.infoweb.ne.jp/~jl6ehr/kindai6.html
間島出兵
該当する日本軍の第19師団の騎兵第27連隊の損害は
戦死11、負傷24 のみで将校の死傷は見当たらない。
靖国神社の合祀名簿もこの報告を裏付けている。
①と②からの結論は、
韓国人の抗日運動の成果を中国人にアピールしたい一念から、
中国の白髪三千丈式の誇張を用いたことが容易に想像がつく。
参考文献・佐々木春隆著「韓国独立運動の研究」国書刊行会
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/kantou_syuppei.htm
当時の関東軍は約2個師団(正確には1個師団+6個大隊で朝鮮軍を合わしても2万人弱)しか朝鮮半島に駐留しておらず、大兵力を投入するのは満州事変以後。
他にも
9世紀30年代から朝鮮を植民地に、アジア侵略の足場にしようと策してきたアメリカ侵略者は、
1866年8月、ついに武装船シャーマン号を大同江に侵入させた。
彼らは鉄砲を乱射して住民を殺傷し、沿岸の村落を略奪した。
そして朝鮮から引き揚げる交換条件として1,000石の米と多量の金を要求した。
これが拒絶されると談判におもむいた朝鮮の管史を抑留するなど乱暴狼藉を働いた。
激昂した平壌の軍民は、【金日成主席の曾祖父金膺禹先生】を先頭に決起し、シャーマン号を焼き払った。
朝鮮人民は同年10月には江花島で7隻のフランス侵略者艦隊を撃退し、1868年には忠芿道紱山に侵入した
アメリカ人を追い払った。
1871年には大兵力を持って侵入してきたアメリカの艦隊を漢江で撃退し、江華島の要塞草芝鎮と
広城鎮で殲滅的な打撃を与えた。
>1871年には大兵力を持って侵入してきたアメリカの艦隊を
米東洋艦隊は、軍艦4隻。
>漢江で撃退し
砲台を占領され、水軍の将旗を奪われる。米軍の戦死は1名。
>江華島の要塞草芝鎮と広城鎮で殲滅的な打撃を与えた。
砲台占領まではしたものの、疫病と食糧不足で撤退。
あと、対テロ部隊の間島特設隊や支那軍と戦った部隊には朝鮮人兵士や仕官も多かったんだよ。
・金錫源
陸士二十七期出身。両班の家に生まれる。
支那事変時、歩兵大隊長として出征し、支那軍1個師団の攻撃を1個大隊で撃退、金鵄勲章を授与される。
その活躍は、連日朝鮮半島の新聞も「金部隊長奮戦記」等としてトップを飾り、スーパースターとなった。
1944年大佐に昇進、平壌兵事部課長を務め、終戦前少将に昇進した。
戦後、韓国陸軍准将、首都師団長として北朝鮮軍を相手に奮戦し、釜山防戦では日本軍時代の軍刀を振りかざして奮戦。
退役後は高校の校長を務め、多くの青年を育成する。
・金白一
韓国第一軍団副軍団長。満州国軍官学校に進学。対ゲリラ専門部隊
、間島特設隊に所属し、抗日パルチザン、後に長城線を越え八路軍と交戦。
・白善菀
韓国第一師団長(この時29歳)。満州国軍学校に入学、金白一は四期先輩に当たる。
卒業後間島特設隊に配属されゲリラ掃討戦に従事。
韓国軍初の大将で最年少(32歳)の参謀総長。
白閣下は日本で本も出されていますし、日本で講演された事もあります。
「若き将軍の朝鮮戦争:白善ヨプ将軍回顧録」(草思社)
初期の韓国軍の幹部は殆どが日本陸軍出身です。
最も、ある元日本軍将校は韓国軍を見て「日本軍の悪い所ばかり真似てる」と嘆いておられましたが。
>誇張はあっても
>作り話ではない.
誇張されすぎ、作りすぎは既に明らかになってるんですが。
青山里の大勝は、わが独立軍の活動の中でも一番光輝く大きな勝利であった。
日本軍は、鳳梧洞の敗北の報復をしようと満州に大規模な軍隊を出動させた。
この時、独立軍を指揮していた金佐鎭は、日本軍を青山里渓谷に引き込んだ。
そして、2千8百数名の独立軍は総勢5万名余りにもなる日本軍を包囲し
険しい山道をすばやく移動しながら攻撃し、3千3百名余りの日本軍を射殺し、負傷させた。
青山里の大勝は、実にわが民族の意気をよく表した独立闘争であった。
http://village.infoweb.ne.jp/~jl6ehr/kindai6.html
間島出兵
該当する日本軍の第19師団の騎兵第27連隊の損害は
戦死11、負傷24 のみで将校の死傷は見当たらない。
靖国神社の合祀名簿もこの報告を裏付けている。
①と②からの結論は、
韓国人の抗日運動の成果を中国人にアピールしたい一念から、
中国の白髪三千丈式の誇張を用いたことが容易に想像がつく。
参考文献・佐々木春隆著「韓国独立運動の研究」国書刊行会
http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/kantou_syuppei.htm
当時の関東軍は約2個師団(正確には1個師団+6個大隊で朝鮮軍を合わしても2万人弱)しか朝鮮半島に駐留しておらず、大兵力を投入するのは満州事変以後。
他にも
9世紀30年代から朝鮮を植民地に、アジア侵略の足場にしようと策してきたアメリカ侵略者は、
1866年8月、ついに武装船シャーマン号を大同江に侵入させた。
彼らは鉄砲を乱射して住民を殺傷し、沿岸の村落を略奪した。
そして朝鮮から引き揚げる交換条件として1,000石の米と多量の金を要求した。
これが拒絶されると談判におもむいた朝鮮の管史を抑留するなど乱暴狼藉を働いた。
激昂した平壌の軍民は、【金日成主席の曾祖父金膺禹先生】を先頭に決起し、シャーマン号を焼き払った。
朝鮮人民は同年10月には江花島で7隻のフランス侵略者艦隊を撃退し、1868年には忠芿道紱山に侵入した
アメリカ人を追い払った。
1871年には大兵力を持って侵入してきたアメリカの艦隊を漢江で撃退し、江華島の要塞草芝鎮と
広城鎮で殲滅的な打撃を与えた。
>1871年には大兵力を持って侵入してきたアメリカの艦隊を
米東洋艦隊は、軍艦4隻。
>漢江で撃退し
砲台を占領され、水軍の将旗を奪われる。米軍の戦死は1名。
>江華島の要塞草芝鎮と広城鎮で殲滅的な打撃を与えた。
砲台占領まではしたものの、疫病と食糧不足で撤退。
あと、対テロ部隊の間島特設隊や支那軍と戦った部隊には朝鮮人兵士や仕官も多かったんだよ。
・金錫源
陸士二十七期出身。両班の家に生まれる。
支那事変時、歩兵大隊長として出征し、支那軍1個師団の攻撃を1個大隊で撃退、金鵄勲章を授与される。
その活躍は、連日朝鮮半島の新聞も「金部隊長奮戦記」等としてトップを飾り、スーパースターとなった。
1944年大佐に昇進、平壌兵事部課長を務め、終戦前少将に昇進した。
戦後、韓国陸軍准将、首都師団長として北朝鮮軍を相手に奮戦し、釜山防戦では日本軍時代の軍刀を振りかざして奮戦。
退役後は高校の校長を務め、多くの青年を育成する。
・金白一
韓国第一軍団副軍団長。満州国軍官学校に進学。対ゲリラ専門部隊
、間島特設隊に所属し、抗日パルチザン、後に長城線を越え八路軍と交戦。
・白善菀
韓国第一師団長(この時29歳)。満州国軍学校に入学、金白一は四期先輩に当たる。
卒業後間島特設隊に配属されゲリラ掃討戦に従事。
韓国軍初の大将で最年少(32歳)の参謀総長。
白閣下は日本で本も出されていますし、日本で講演された事もあります。
「若き将軍の朝鮮戦争:白善ヨプ将軍回顧録」(草思社)
初期の韓国軍の幹部は殆どが日本陸軍出身です。
最も、ある元日本軍将校は韓国軍を見て「日本軍の悪い所ばかり真似てる」と嘆いておられましたが。
これは メッセージ 28916 (sadamraden さん)への返信です.