コピペKmechan
投稿者: quicksilver_pollution 投稿日時: 2003/09/20 23:18 投稿番号: [760 / 6952]
豊臣軍を嚮導した朝鮮の民衆
豊臣軍があれだけ早く漢城(現ソウル)に到達できたのは、朝鮮の民衆が率先して豊臣軍を嚮導(先に立って導くこと)したからであった。『芝峯類説』で李[目+卒]光が、「倭賊、我が国人を以て嚮導とす。故に遠きとして到らざる無し」と言い、そのため、かえって深山に難を避けた人々のほうが犠牲になったという。この時、朝鮮の民衆が嚮導に走ったのは、『宣祖実録』二十五年五月壬戌条で「人心怨叛し、倭と同心」するような社会的要因があったからである。16世紀末の朝鮮では、支配階級の両斑たちが党派争いに明け暮れ、私利私欲に趨(はし)る一部王族や高官等が百姓を酷使して、民衆は塗炭の苦しみを舐めていた。そのため朝鮮の民は、豊臣軍の「私たちは君たちを殺さない、君たちの王が民を虐げたので、今この結果があるのだ」という宣伝文句をそのまま受け入れ、「倭も亦人なり。我ら何ぞ必ずしも家を棄て避けんや」と、恐れる様子もなかった。したがって、秀吉軍がソウルに進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったのである。そればかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が含まれていた。事実、平壌の役の際、明軍は「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と、朝鮮側に真偽を確かめるほどその数が多かったのである。そして、この時も倭寇と同様、「仮倭」が登場し、その害は日本人よりも甚だしかったと趙靖の『黔澗集』は伝え、金誠一も「処処賊をなす者、倭奴幾ばくも無し。半ば是叛民。極めて寒心すべし」と「鶴峯集」で述べている。
現在、ソウルにある景福宮や昌慶宮等を訪れると、その大部分の観光案内板には「それらの建物は壬辰の乱の兵火で焼失した」と書かれている。しかし、それらは秀吉の軍隊がソウルに入城する二日前には、すでに焼け落ちていた。兵火で王宮や官衙(官庁)が灰燼に帰したのは事実だが、火を掛けたのは朝鮮の人々であった。李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』等には、その時の状況が記録されている。それらによると、宣祖のソウル脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし、火を放ったのだ。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。李[シ+翼]はこれと同じことが高麗時代にも起こっていたと『星湖[イ+塞]説』で述べているが、虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映ったのであった。
この郡県の民の行動は、1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮が韓国に侵攻した時にも見られた。北朝鮮軍は自ら解放軍を名乗り、韓国の人々がそれに協力するという事態が各地で起きた。過去の歴史と同じ構図が再現されたわけだが、それらはいずれも韓国側の政治的混乱と貧富の差が招いたものである。しかし、戦況が変わり、国連軍の支援を受けた韓国側が北進を始めると、その立場が逆転した。自由を求めて北朝鮮から人々が逃げてくるのと入れ替わりに、北朝鮮軍に近かった人々は北に逃れていったからだ。その時々の状況で、民衆もその立場を変えていかざるを得なかったのだ。だが、これは個人にばかり責任を帰すべき問題ではない。そのような選択肢以外に生きる道がなかった、当時の状況こそが問題とされるべきだからである。
民心を失った豊臣軍
ところで、文禄の役の時も、朝鮮の民衆は同じ選択を迫られていた。秀吉の軍隊が京城(ソウル)に入城した時、その兵士の半ばは朝鮮の人々であったと『征韓偉略』は記しているが、明が参戦し、豊臣軍が後退し始めると様相は一変した。秋が過ぎて冬に入ると、豊臣軍にとって難民の存在は邪魔なばかりか、負担になっていった。自らの食糧問題も解決しなければならなかったからだ。その時、撤退する豊臣軍には、これら民衆が朝鮮側と内通するのではないかという疑心がつきまとっていた。それがやがて民衆を抛棄することになり、豊臣軍は民心を失うことになったのである。豊臣軍がソウルを去り、入れ代わりに宣祖が戻ってくると、城内の民衆は自分たちを置き去りにしたはずの宜祖に食糧を求めて群がり、食べ物を与えられると感涙するのであった。豊臣軍が義兵に苦しめられるのは、形勢が逆転してからのことである。
(「日韓・歴史克服への道」下條正男 平成11年 展転社)
豊臣軍があれだけ早く漢城(現ソウル)に到達できたのは、朝鮮の民衆が率先して豊臣軍を嚮導(先に立って導くこと)したからであった。『芝峯類説』で李[目+卒]光が、「倭賊、我が国人を以て嚮導とす。故に遠きとして到らざる無し」と言い、そのため、かえって深山に難を避けた人々のほうが犠牲になったという。この時、朝鮮の民衆が嚮導に走ったのは、『宣祖実録』二十五年五月壬戌条で「人心怨叛し、倭と同心」するような社会的要因があったからである。16世紀末の朝鮮では、支配階級の両斑たちが党派争いに明け暮れ、私利私欲に趨(はし)る一部王族や高官等が百姓を酷使して、民衆は塗炭の苦しみを舐めていた。そのため朝鮮の民は、豊臣軍の「私たちは君たちを殺さない、君たちの王が民を虐げたので、今この結果があるのだ」という宣伝文句をそのまま受け入れ、「倭も亦人なり。我ら何ぞ必ずしも家を棄て避けんや」と、恐れる様子もなかった。したがって、秀吉軍がソウルに進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったのである。そればかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が含まれていた。事実、平壌の役の際、明軍は「斬る所の首級半ば皆朝鮮の民、焚溺萬餘、尽く皆朝鮮の民」と、朝鮮側に真偽を確かめるほどその数が多かったのである。そして、この時も倭寇と同様、「仮倭」が登場し、その害は日本人よりも甚だしかったと趙靖の『黔澗集』は伝え、金誠一も「処処賊をなす者、倭奴幾ばくも無し。半ば是叛民。極めて寒心すべし」と「鶴峯集」で述べている。
現在、ソウルにある景福宮や昌慶宮等を訪れると、その大部分の観光案内板には「それらの建物は壬辰の乱の兵火で焼失した」と書かれている。しかし、それらは秀吉の軍隊がソウルに入城する二日前には、すでに焼け落ちていた。兵火で王宮や官衙(官庁)が灰燼に帰したのは事実だが、火を掛けたのは朝鮮の人々であった。李廷馥の『四留斎集』や李恒福の『白沙集』等には、その時の状況が記録されている。それらによると、宣祖のソウル脱出と同時に、日頃から怨念を抱いていた民衆が官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし、火を放ったのだ。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。李[シ+翼]はこれと同じことが高麗時代にも起こっていたと『星湖[イ+塞]説』で述べているが、虐げられた朝鮮の民衆にとって、外敵の侵入はまさに解放軍の到来と映ったのであった。
この郡県の民の行動は、1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮が韓国に侵攻した時にも見られた。北朝鮮軍は自ら解放軍を名乗り、韓国の人々がそれに協力するという事態が各地で起きた。過去の歴史と同じ構図が再現されたわけだが、それらはいずれも韓国側の政治的混乱と貧富の差が招いたものである。しかし、戦況が変わり、国連軍の支援を受けた韓国側が北進を始めると、その立場が逆転した。自由を求めて北朝鮮から人々が逃げてくるのと入れ替わりに、北朝鮮軍に近かった人々は北に逃れていったからだ。その時々の状況で、民衆もその立場を変えていかざるを得なかったのだ。だが、これは個人にばかり責任を帰すべき問題ではない。そのような選択肢以外に生きる道がなかった、当時の状況こそが問題とされるべきだからである。
民心を失った豊臣軍
ところで、文禄の役の時も、朝鮮の民衆は同じ選択を迫られていた。秀吉の軍隊が京城(ソウル)に入城した時、その兵士の半ばは朝鮮の人々であったと『征韓偉略』は記しているが、明が参戦し、豊臣軍が後退し始めると様相は一変した。秋が過ぎて冬に入ると、豊臣軍にとって難民の存在は邪魔なばかりか、負担になっていった。自らの食糧問題も解決しなければならなかったからだ。その時、撤退する豊臣軍には、これら民衆が朝鮮側と内通するのではないかという疑心がつきまとっていた。それがやがて民衆を抛棄することになり、豊臣軍は民心を失うことになったのである。豊臣軍がソウルを去り、入れ代わりに宣祖が戻ってくると、城内の民衆は自分たちを置き去りにしたはずの宜祖に食糧を求めて群がり、食べ物を与えられると感涙するのであった。豊臣軍が義兵に苦しめられるのは、形勢が逆転してからのことである。
(「日韓・歴史克服への道」下條正男 平成11年 展転社)
これは メッセージ 759 (Kmechan さん)への返信です.
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