Re: ★倭人の日本人(蝦夷強姦)は世界的に有
投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2010/07/31 21:57 投稿番号: [5874 / 6952]
>ということで、新羅人は出雲人と同じ人々であって、
物理的に半島から移動した状態を渡来、その人々を渡来人と表現しました。
DNA的にも文化的にもとても近い人々が双方の土地に居たとイメージしています。
ですから支配とか征服とかというものでは無いと思うのですが、
この考えはおかしいでしょうか!?
俺はおかしいと思う日本人はY遺伝子D系統が多数を占める。
トンスラーと日本人は遺伝的に他人。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26584569.html
そもそも、日本が古代百済から文化的影響受けた根拠が不明。
日本の寺院建築で大陸風の軸組構造が現れるのは710年の薬師寺から。
百済が滅びてから50年も経っている。
法隆寺は桁のない不思議な構造。
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要するに、法隆寺金堂は、外観や空間構成に関しては寺院としての態を成し、高度に洗練されてさえいるのだが、内陣側の組物の処理・天井の構法・頭貫の切継ぎ・そして梁皆無の構造法などに関しては、そのすぐ後の時代の建築物に比べて全くでたらめで、1000年以上の歴史を経て大成されていた当時の中国の建築技法に対して、十分に習熟した者が設計した建築とは到底思えないのである。
そうすると考えられることは、玉虫厨子のような何らかの建築的模型を手本にして、大陸建築の構造上の意味を充分に把握しない人間が作ったという可能性だ。 法隆寺金堂内部の組物は極めて単純なので、その方面の専門の技術者でなくとも、素人の留学生の見覚えて帰ってきた知識や、簡単な絵からでも、実現できる可能性は十分にある。 (と、昭和の法隆寺解体修理に参加した竹島卓一という研究者は言っている。) 日本の大工が西洋建築を見よう見まねで造った「擬洋風建築」が現れた明治期と似たようなことが行われていたのかも知れない。
ではどうしてこんな建築が今まで保ってきたのかというと、極めて贅沢な材料を使っているから、ということらしい。 元々、大陸や半島に比べて日本は木材資源に恵まれているのだが、特に法隆寺に使われている部材は、大陸はもちろん、日本でも後代の同規模の建物に例を見ないほどに太い。 長くて太くて強い材料をふんだんに使って造れば、そして補修を怠らなければ、多少構造上不合理でも、1300年保ってしまうのである。 (とは言え、400年前の大改修時にせよ、昭和の解体修理時にせよ、相当ヤバイ状態だったらしいが。)
どうして異常なまでに太い柱が使われたのだろうか? 掘立柱による従来の構法に慣れた日本人が、柱を礎石の上に置くだけの大陸の構法に不安を感じたのかも知れないし、或いは現実に礎石柱の手法で建てた建築が、地震や台風によって倒壊した経験があったのかも知れない。そうでなくても、地震や台風によって家屋が倒壊することは経験から知っていた筈である。 それらのことが、途方も無く太い柱を使うことを思いつかせたことは比較的考えやすい。 後代においては、この大陸の建築技法に対する不安が、やがて礎石の中心に凸を作り出して柱の滑りを防ぐことを思いつかせ、木材の組み方にも工夫が加えられてゆき、日本独自の構法を発展させてゆく。
物理的に半島から移動した状態を渡来、その人々を渡来人と表現しました。
DNA的にも文化的にもとても近い人々が双方の土地に居たとイメージしています。
ですから支配とか征服とかというものでは無いと思うのですが、
この考えはおかしいでしょうか!?
俺はおかしいと思う日本人はY遺伝子D系統が多数を占める。
トンスラーと日本人は遺伝的に他人。
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/26584569.html
そもそも、日本が古代百済から文化的影響受けた根拠が不明。
日本の寺院建築で大陸風の軸組構造が現れるのは710年の薬師寺から。
百済が滅びてから50年も経っている。
法隆寺は桁のない不思議な構造。
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要するに、法隆寺金堂は、外観や空間構成に関しては寺院としての態を成し、高度に洗練されてさえいるのだが、内陣側の組物の処理・天井の構法・頭貫の切継ぎ・そして梁皆無の構造法などに関しては、そのすぐ後の時代の建築物に比べて全くでたらめで、1000年以上の歴史を経て大成されていた当時の中国の建築技法に対して、十分に習熟した者が設計した建築とは到底思えないのである。
そうすると考えられることは、玉虫厨子のような何らかの建築的模型を手本にして、大陸建築の構造上の意味を充分に把握しない人間が作ったという可能性だ。 法隆寺金堂内部の組物は極めて単純なので、その方面の専門の技術者でなくとも、素人の留学生の見覚えて帰ってきた知識や、簡単な絵からでも、実現できる可能性は十分にある。 (と、昭和の法隆寺解体修理に参加した竹島卓一という研究者は言っている。) 日本の大工が西洋建築を見よう見まねで造った「擬洋風建築」が現れた明治期と似たようなことが行われていたのかも知れない。
ではどうしてこんな建築が今まで保ってきたのかというと、極めて贅沢な材料を使っているから、ということらしい。 元々、大陸や半島に比べて日本は木材資源に恵まれているのだが、特に法隆寺に使われている部材は、大陸はもちろん、日本でも後代の同規模の建物に例を見ないほどに太い。 長くて太くて強い材料をふんだんに使って造れば、そして補修を怠らなければ、多少構造上不合理でも、1300年保ってしまうのである。 (とは言え、400年前の大改修時にせよ、昭和の解体修理時にせよ、相当ヤバイ状態だったらしいが。)
どうして異常なまでに太い柱が使われたのだろうか? 掘立柱による従来の構法に慣れた日本人が、柱を礎石の上に置くだけの大陸の構法に不安を感じたのかも知れないし、或いは現実に礎石柱の手法で建てた建築が、地震や台風によって倒壊した経験があったのかも知れない。そうでなくても、地震や台風によって家屋が倒壊することは経験から知っていた筈である。 それらのことが、途方も無く太い柱を使うことを思いつかせたことは比較的考えやすい。 後代においては、この大陸の建築技法に対する不安が、やがて礎石の中心に凸を作り出して柱の滑りを防ぐことを思いつかせ、木材の組み方にも工夫が加えられてゆき、日本独自の構法を発展させてゆく。
これは メッセージ 5872 (kurogoro1960 さん)への返信です.
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