日韓歴史論争

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Re: 蒙古襲来は高麗軍

投稿者: pokosi2000 投稿日時: 2009/05/24 20:39 投稿番号: [5122 / 6952]
>教科書に載せよう。高麗軍は弱い



事実ですね、蒙古襲来ではなく高麗襲来と言うべきです。
壱岐・対馬の一般市民相手には無敵だった高麗軍は鎌倉武士の正規兵と衝突すると惨敗した。
鋭利な日本刀に革の鎧は役に立たず、威力の少ない短弓では鎌倉武士の鎧を貫けず鏃に毒を塗らざるを得なかった。
反対に高麗軍は副将格の人間まで日本軍の弓にやられていた。
いかにも朝鮮人らしい話ですな。


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2   文永の役(第一次侵攻作戦) この後、モンゴル皇帝フビライが高麗に日本侵攻のために船を造れと命令(命令ですよ、命令。)しますが、費用も資材もなく、工期にも間に合いそうになく、国家の大問題となります。それもこれも、人質だったころの忠烈王が、自分が帰国したい一心でモンゴル人のコスプレまでして「私を帰国させてくれたら日本に聖なるモンゴルの偉さを教えてあげます〜帰国させてください〜頼みです〜」と媚びたツケが回ってきたものです。

そんなこんなで、工費も工期も資材も半端な900隻のボロ船艦隊が完成しました。乗り込んだのは蒙漢軍(ほとんど中国北部の中国人でモンゴル人はほとんどいない)25000名、高麗軍8000名、水夫6700名(船大工をそのまま水夫として徴用)、合計約40000名の安っぽい侵攻部隊のできあがりです。

ボロ船艦隊は合浦を出航し、対馬・壱岐を襲撃します。壱岐・対馬では数にものを言わせて占領しますが、日本本土に到着すると状況は一変します。武士ツヨス。高麗軍は必死に奮戦して、夕方には戦闘が一段落します。というか、高麗軍は割とボロボロです。(参考:元史では「盡矢(矢が尽きた)」と表現されている。)

そこで作戦会議です。金方慶は総司令官の忽敦と隣接部隊の司令官である洪茶丘 に「我が軍は劣勢とはいえ、敵の領土に入ることが出来たのだから、戦うべきです。船を焼き払い、背水の陣をしいて、もう一度戦いましょう。」と口先だけで勇ましいことを言います。総司令官の忽敦は「あのねえ、孫子が〈小敵の堅、大敵の擒〉って言うようにね、味方の敗残兵(原文:疲乏之兵)をかきあつめて、どんどん増強される優勢な日本軍(原文:敵日滋之衆)と戦っても勝てるわけがないでしょ。退却するしかないよね。」と金方慶の無謀な案を一撃で却下します。

もう一人の指揮官、復亨はその日の戦いで矢に当たって重傷を負い、既に船に逃げ帰っていたので作戦会議には出席していないです〜。こうして「全軍退却(原文:遂引兵還)」が決定したわけでございます。橋頭堡も確保できずに上陸作戦失敗。この時点で、元・高麗軍の敗北決定。敗戦。日本軍の勝利確定。

そうして船に逃げ込んだ日の夜、折からの暴風雨でボロ船艦隊は粉々になります。暴風雨に遭った時点で、既に戦争に負けて逃げ帰る途中だったのだね。


3   その後の金方慶
  後に金方慶、元寇の敗因を上げて「船大工を水夫として使ったら戦闘では全然役に立たなかった」なんて当たり前の事を言っております。アホです。そんなこんなで、金方慶、疑獄事件に巻き込まれ、針金を首に結びつけられて引き回され、鞭で頭を殴られたりします。朝鮮半島に息づく伝統文化、密告による謀叛・横領の疑いです。金方慶とその一族は奴隷にされて(方慶及子壻家属悉送京師以為奴隷)その禄は兵糧に転用されます。楽しい人生です。残念なことに後にこの疑いは晴れてしまいます。w

<#`д´>私は悪くなくて!船大工がうっかり者なの!まことに息苦しいですね!



http://ameblo.jp/campanera/entry-10062357581.html
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