やれやれ。
投稿者: aiyaaa_sibaraku 投稿日時: 2008/01/08 10:38 投稿番号: [4361 / 6952]
(たぶん、この人には何をいっても無理だと思いますが、少しだけ横から)
常連の皆さん、ちょっと失礼します。
遥か昔から 、倭人の興味は文化の中心・中原です。倭人にとって朝鮮半島の韓人エリアは中原への通路でした。だから、紀元前後の時期には半島南部に倭人拠点を置いたし、通路となる半島西部とは馬韓から百済時代を通じて仲良くしてきました。むしろ百済に対しては相当なインフラ投資をしてきたはずで、だからこそ百済には軍事支援・軍事介入を続けてもきました。
カヤ、カラとか呼ばれた地域には、倭人文化の痕跡・文化遺物が歴然と残っているでしょう。このあたりが倭人の半島拠点ですね。5〜6世紀ごろになると、馬韓のエリア(のちに百済領)の半島南西部にも倭人の前方後円墳群がつくられます。
もどって3世紀。東夷諸国を調査した中国のオフィシャル記録は、人種観の厳しい中国人の目にも韓人とは異なる倭人がいたことを目撃しているし、百済の前身の馬韓や新羅の前身たる辰韓でも南部では倭人の刺青の習俗がみられたことを告げています。この事実は、倭人の漁労文化の浸透を示唆します。(済州島に残る素潜りの海女漁は倭人の漁法です)。
その3世紀の中国のオフィシャル記録は、当時の韓人社会をこう書き残しています。
「韓人の統治機構は未発達で完全には行きわたっていない」「中国の統治下にある帯方郡近くの者は少しは礼節をわきまえているが、離れたところになると盗賊か奴婢の集団のようである」「ひざまづいて拝する儀礼がない」。
………ここで、同じ記録の中にある倭国の様子を比較して見せるまでもありませんね。
時代が下がって隋代(半島では百済時代)になると「ひざまづい拝する礼儀」があったようです。この時期、中国人、倭人、新羅人、高句麗人、百済人が混在したようですから、かなり外来の文化や習俗が浸透してきたのでしょう。百済文化は、そうした諸国人による複合的産物です。
さらに下って江戸時代。朝鮮通信使が日本にきて最も驚いたのは、庶民文化の多様性・華やかさ・豊かさだったそうです。これだけで、当時の朝鮮の庶民文化が「いかほど」だったか想像するに余りあります。庶民文化は政治の反映であり、庶民の創造性や生活力「民力」の尺度でもあります。
好太王碑文もさることながら、これらは、日本人がいっている歴史ではありません。
信頼のおけない、どこぞの歴史書がいっているのでもありません。
信頼のおける中国と半島の歴史が証言している事実です。
●「未開野蛮倭を2千年間何から何まで一々教えて教化して来たことは事実で」
「正しい歴史をみるように」との声が何度も出ているようですが、論調を観察したところ、たぶん正視することができないし正視することもないでしょう。
ま・騎馬民族などと、学術的にありもしない造語でねつ造された征服説を語る輩が日本人にもまだチラホラいます。何でも高句麗が征服したという亜流もいます。半島渡りの渡来人という言葉に酔って、おなじような風説を垂れる輩もいます。こいつらに共通するのは、倭人・倭国り乗っ取り説ではなく、倭人・倭国の「歴史」を乗っ取ってしまおうというところです。
さもありなん。高句麗、百済、新羅、それに、いつ現われていつ消滅したかも判然としない「夫余」など、みな中国の玄菟郡下に属していた異民族集団です。だから中国は歴代にわたって、夫余国、馬韓国、辰韓国、百済国、新羅国、高句麗国という表現をしてこなかった。……夫余と辰韓(新羅)は、中国北部からの流入集団が起源だと記録されています。
……倭国は中国の藩外の独立国です。3世紀には中央集権的王制のひな形がうかがえるし、東夷諸国の中でもトップのまとまった体制と人口数を誇っていました。きちんとした歴史をもつ国。これが歴史のいう事実です。
こんなところで、「審判の判定に不服でチームぐるみで暴れまくる」かような歴史議論は、お・よ・し・なさい。
常連の皆さん、ちょっと失礼します。
遥か昔から 、倭人の興味は文化の中心・中原です。倭人にとって朝鮮半島の韓人エリアは中原への通路でした。だから、紀元前後の時期には半島南部に倭人拠点を置いたし、通路となる半島西部とは馬韓から百済時代を通じて仲良くしてきました。むしろ百済に対しては相当なインフラ投資をしてきたはずで、だからこそ百済には軍事支援・軍事介入を続けてもきました。
カヤ、カラとか呼ばれた地域には、倭人文化の痕跡・文化遺物が歴然と残っているでしょう。このあたりが倭人の半島拠点ですね。5〜6世紀ごろになると、馬韓のエリア(のちに百済領)の半島南西部にも倭人の前方後円墳群がつくられます。
もどって3世紀。東夷諸国を調査した中国のオフィシャル記録は、人種観の厳しい中国人の目にも韓人とは異なる倭人がいたことを目撃しているし、百済の前身の馬韓や新羅の前身たる辰韓でも南部では倭人の刺青の習俗がみられたことを告げています。この事実は、倭人の漁労文化の浸透を示唆します。(済州島に残る素潜りの海女漁は倭人の漁法です)。
その3世紀の中国のオフィシャル記録は、当時の韓人社会をこう書き残しています。
「韓人の統治機構は未発達で完全には行きわたっていない」「中国の統治下にある帯方郡近くの者は少しは礼節をわきまえているが、離れたところになると盗賊か奴婢の集団のようである」「ひざまづいて拝する儀礼がない」。
………ここで、同じ記録の中にある倭国の様子を比較して見せるまでもありませんね。
時代が下がって隋代(半島では百済時代)になると「ひざまづい拝する礼儀」があったようです。この時期、中国人、倭人、新羅人、高句麗人、百済人が混在したようですから、かなり外来の文化や習俗が浸透してきたのでしょう。百済文化は、そうした諸国人による複合的産物です。
さらに下って江戸時代。朝鮮通信使が日本にきて最も驚いたのは、庶民文化の多様性・華やかさ・豊かさだったそうです。これだけで、当時の朝鮮の庶民文化が「いかほど」だったか想像するに余りあります。庶民文化は政治の反映であり、庶民の創造性や生活力「民力」の尺度でもあります。
好太王碑文もさることながら、これらは、日本人がいっている歴史ではありません。
信頼のおけない、どこぞの歴史書がいっているのでもありません。
信頼のおける中国と半島の歴史が証言している事実です。
●「未開野蛮倭を2千年間何から何まで一々教えて教化して来たことは事実で」
「正しい歴史をみるように」との声が何度も出ているようですが、論調を観察したところ、たぶん正視することができないし正視することもないでしょう。
ま・騎馬民族などと、学術的にありもしない造語でねつ造された征服説を語る輩が日本人にもまだチラホラいます。何でも高句麗が征服したという亜流もいます。半島渡りの渡来人という言葉に酔って、おなじような風説を垂れる輩もいます。こいつらに共通するのは、倭人・倭国り乗っ取り説ではなく、倭人・倭国の「歴史」を乗っ取ってしまおうというところです。
さもありなん。高句麗、百済、新羅、それに、いつ現われていつ消滅したかも判然としない「夫余」など、みな中国の玄菟郡下に属していた異民族集団です。だから中国は歴代にわたって、夫余国、馬韓国、辰韓国、百済国、新羅国、高句麗国という表現をしてこなかった。……夫余と辰韓(新羅)は、中国北部からの流入集団が起源だと記録されています。
……倭国は中国の藩外の独立国です。3世紀には中央集権的王制のひな形がうかがえるし、東夷諸国の中でもトップのまとまった体制と人口数を誇っていました。きちんとした歴史をもつ国。これが歴史のいう事実です。
こんなところで、「審判の判定に不服でチームぐるみで暴れまくる」かような歴史議論は、お・よ・し・なさい。
これは メッセージ 4350 (ilkuji_life さん)への返信です.
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