ノ・ムヒョンの歴史認識
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/05/26 21:02 投稿番号: [3859 / 6952]
韓国のイージス艦進水
世界で5番目の保有国に
http://www.asahi.com/international/update/0525/TKY200705250361.html
>進水式に出席した盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「世宗大王時代の15世紀前半、世界で約50の科学発明があった。韓国が22、中国が3、日本が1〜2だった。国力がどの時代よりも強く、北東アジアの平和が維持できた」と語った。
ウェーハッハッハッ!!!
マンセー!!!
確かに世宗は李朝の例外的名君らしいけど、科学「発明」でなく、「工夫」ざんしょ。(苦笑)
しかも国力が強い?(笑)
対馬への遠征(応永の外寇・己亥東征)の失敗は父親の太宗の責任としても、世宗は対馬の宗氏に押しまくられて外交上の譲歩(懐柔策)で切り抜けただけじゃん。
(参考)
「韓国・堕落の2000年史」崔基鎬著より。
『例外的な名君だった第4代世宗
李朝第4代の王は、世宗大王と呼ばれている。太宗の三男である。
世宗は1416年に22歳で即位したが、賢明で学問を好み、内治、外交、文化など多方面に多大の治績を挙げて、後世の学者によって王朝の基礎を強固にした名君と評価されている。
世宗は即位と同時に、「正音庁」を設置してハングル文字である「訓民正音」を創製した。また、集賢殿を設置して国内の優秀な学者を集め、多くの書物を編纂させた。
世宗王自身も「月印千江之曲」という純ハングル文の詩を著わしているが、仏の徳を称え、仏の恩徳が絶大である事を詠ったものである。
世宗王は、父王までの3代の王が仏教を徹底的に排除して弾圧したのにも拘らず、仏教に強い関心を寄せた。世宗は仏教の改革に努め、その書籍などを刊行し、科挙に僧科を設置して、仏教の発展に寄与している。
更に世宗の命によって、李朝の事跡を歌に詠んだ「竜飛御天歌」が刊行された。全十巻にわたり、百二十五章に分かれるが、先ず中国の歴代の皇帝の偉業を讃美し、次いで李朝の事跡を称えたものである。この「竜飛御天歌」と「月印千江之曲」が、世宗事跡の双璧を成している。
そして「高麗史」を編纂させた外に、三綱行実図、八道地理誌、治平要覧、医方類聚などを編み、李朝500年の中で、最も治績があった王として評価されている。
世宗は学者達に依頼して暦書を編み、太陽時計、水時計、渾天儀など各種の科学器具を発明、製作させて、天体を測定した。また、日本に対しては歳遣船を使って、朝鮮と対馬の間の貿易と往来を許した。それに加えて三浦を開港し、倭館を建てる事によって、自由貿易を歓奨した。三浦とは、釜山浦、斎浦、塩浦の三港のことである。
世宗二十五年に当たる1443年には、歳遣船の数が51隻に増えたが、時には特送船を、2、3隻追加する事によって和親政策をとり、外交面でも尽力した。』
1419年(応永26)応永の外寇。
6月19日李従茂指揮の227隻,1万7,258人からなる船隊がコジェード(巨済島)から対馬にむかい,翌20日対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。当初朝鮮軍は民家1,939戸,首級104をあげるなど戦果をあげた。しかし,同年26日に仁位郡に進攻したころから対馬の伏兵に反撃され,朝鮮軍は2,500余人の損害を出した。そして宗貞盛の撤兵要求をいれて7月3日巨済島に引き揚げた。
この応永の外寇の4年後に、李朝の対外強硬論者の太宗が死去し、子の世宗が平和外交を推進。
嘉吉条約の結果、宗氏には毎年50船を派遣して貿易を行うことが認められた他に、従来通りに歳賜米・豆200石まで保証。
李朝は、宗氏の要求に対して朝鮮沿岸孤草島(全羅道)への釣魚権まで認めて、宗氏は対馬の漁民から税金を取る権利を取得。
しかも、富山浦(釜山)、乃而浦(斉浦)と塩浦(蔚山)の三港、いわゆる三浦(サンポ)には対馬の人々3千人以上が定住して、貿易、農業や漁業を営み始める。
さらに宗氏は代官を派遣して、日本人定住者(恒居倭)を支配し、課税するという権限を取得。
http://www.asahi.com/international/update/0525/TKY200705250361.html
>進水式に出席した盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領は「世宗大王時代の15世紀前半、世界で約50の科学発明があった。韓国が22、中国が3、日本が1〜2だった。国力がどの時代よりも強く、北東アジアの平和が維持できた」と語った。
ウェーハッハッハッ!!!
マンセー!!!
確かに世宗は李朝の例外的名君らしいけど、科学「発明」でなく、「工夫」ざんしょ。(苦笑)
しかも国力が強い?(笑)
対馬への遠征(応永の外寇・己亥東征)の失敗は父親の太宗の責任としても、世宗は対馬の宗氏に押しまくられて外交上の譲歩(懐柔策)で切り抜けただけじゃん。
(参考)
「韓国・堕落の2000年史」崔基鎬著より。
『例外的な名君だった第4代世宗
李朝第4代の王は、世宗大王と呼ばれている。太宗の三男である。
世宗は1416年に22歳で即位したが、賢明で学問を好み、内治、外交、文化など多方面に多大の治績を挙げて、後世の学者によって王朝の基礎を強固にした名君と評価されている。
世宗は即位と同時に、「正音庁」を設置してハングル文字である「訓民正音」を創製した。また、集賢殿を設置して国内の優秀な学者を集め、多くの書物を編纂させた。
世宗王自身も「月印千江之曲」という純ハングル文の詩を著わしているが、仏の徳を称え、仏の恩徳が絶大である事を詠ったものである。
世宗王は、父王までの3代の王が仏教を徹底的に排除して弾圧したのにも拘らず、仏教に強い関心を寄せた。世宗は仏教の改革に努め、その書籍などを刊行し、科挙に僧科を設置して、仏教の発展に寄与している。
更に世宗の命によって、李朝の事跡を歌に詠んだ「竜飛御天歌」が刊行された。全十巻にわたり、百二十五章に分かれるが、先ず中国の歴代の皇帝の偉業を讃美し、次いで李朝の事跡を称えたものである。この「竜飛御天歌」と「月印千江之曲」が、世宗事跡の双璧を成している。
そして「高麗史」を編纂させた外に、三綱行実図、八道地理誌、治平要覧、医方類聚などを編み、李朝500年の中で、最も治績があった王として評価されている。
世宗は学者達に依頼して暦書を編み、太陽時計、水時計、渾天儀など各種の科学器具を発明、製作させて、天体を測定した。また、日本に対しては歳遣船を使って、朝鮮と対馬の間の貿易と往来を許した。それに加えて三浦を開港し、倭館を建てる事によって、自由貿易を歓奨した。三浦とは、釜山浦、斎浦、塩浦の三港のことである。
世宗二十五年に当たる1443年には、歳遣船の数が51隻に増えたが、時には特送船を、2、3隻追加する事によって和親政策をとり、外交面でも尽力した。』
1419年(応永26)応永の外寇。
6月19日李従茂指揮の227隻,1万7,258人からなる船隊がコジェード(巨済島)から対馬にむかい,翌20日対馬浅茅湾の土寄崎に停泊。当初朝鮮軍は民家1,939戸,首級104をあげるなど戦果をあげた。しかし,同年26日に仁位郡に進攻したころから対馬の伏兵に反撃され,朝鮮軍は2,500余人の損害を出した。そして宗貞盛の撤兵要求をいれて7月3日巨済島に引き揚げた。
この応永の外寇の4年後に、李朝の対外強硬論者の太宗が死去し、子の世宗が平和外交を推進。
嘉吉条約の結果、宗氏には毎年50船を派遣して貿易を行うことが認められた他に、従来通りに歳賜米・豆200石まで保証。
李朝は、宗氏の要求に対して朝鮮沿岸孤草島(全羅道)への釣魚権まで認めて、宗氏は対馬の漁民から税金を取る権利を取得。
しかも、富山浦(釜山)、乃而浦(斉浦)と塩浦(蔚山)の三港、いわゆる三浦(サンポ)には対馬の人々3千人以上が定住して、貿易、農業や漁業を営み始める。
さらに宗氏は代官を派遣して、日本人定住者(恒居倭)を支配し、課税するという権限を取得。
これは メッセージ 1 (ryuckel さん)への返信です.
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