『日本書紀』朝鮮関係年表、仲哀〜雄略⑥
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/10/10 20:18 投稿番号: [3246 / 6952]
○雄略天皇5年辛丑
461
4月、百済蓋鹵王(加須利君)、他津媛が殺されたと聞き、「今後、女に貢つるべからず」といい、さらに弟の軍君(△支)に日本に行って天皇に仕えるべきことを命じる。軍君、出発に先立ち、王の妃の降嫁を請う。王、みごもった妃を軍君と結婚させた上で、「もし道中で子供が産まれたならば、ただちに母子を送り返すように」と述べ、日本に出発させる。
6月、朔日、妃、筑紫の各羅島で子を産む。「島君」と名付け、百済に送り返す。これが武寧王である。百済人は、その島を「主島」と呼んだ。
7月、軍君、入京。「百済新撰」に云わく、「辛丑年(461)、蓋鹵王王弟▽支君を遣わし、大倭に向かわせる。先王の好みなり。」と。(▽は王に昆)
○雄略天皇6年壬寅 462
4月、呉国、遣使貢献。
○雄略天皇7年癸卯 463
是歳、天皇、吉備上道臣田狭の妻稚媛を女御としようと思い、田狭を任那国司に任ず。しばらくして、天皇、稚媛を召す。田狭、任所においてこのことを聞き、新羅に援助を求める。時に新羅、日本に朝貢せず。天皇、田狭の子弟君らに新羅征討を命じる。弟君、百済を経て新羅に到るが、路の遠いことを聞かされ、伐たずして引き返す。百済の貢上した今来の才伎とともに滞留を続ける。田狭、密かに使者を弟君のもとに送り、汝は百済を拠点とし、吾は任那を拠点として、日本には通じまい、と伝える。弟君の妻樟媛は、この謀叛をにくみ、夫を殺し、才伎らを率いて、大島に到る。
○雄略天皇8年甲辰 464
2月、身狭村主青らを、呉国に遣わす。天皇即位以来8年、新羅、朝貢せず。日本を懼れて高麗と好みを結ぶ。高麗王、兵を使わして新羅を守る。しかし高麗の真意が新羅侵略にあることを知った新羅は、国内の高麗兵をことごとく殺す。一人逃げ帰った兵から聞いた高麗王は、直ちに遠征軍を派遣。新羅王、任那に遣使して、救援を「日本府軍元帥等」に求める。任那王、膳臣斑鳩らに勧めて新羅を救援させる。膳臣斑鳩ら、高麗軍を討ち破り、新羅王に、今後日本に背くことがないように、と語る。
○雄略天皇9年乙巳 465
3月、天皇、新羅親征を企てるが、臣下の反対で止める。紀小弓宿禰らに詔して、即位以来の新羅の無礼を述べ、討伐を命じる。紀小弓宿禰ら、新羅に到り、進軍して、トクの地を占領するが、将兵の死する者多く、紀小弓宿禰は病没する。
5月、紀小弓宿禰の子大磐宿禰が新羅に向かい、指揮権を奪い執る。このため、日本軍に内紛が起こる。
○雄略天皇10年丙午 466
9月、身狭村主青、呉の献上する2羽の鵞鳥を携えて筑紫に帰着。
○雄略天皇12年戊申 468
4月、身狭村主青らを呉に遣わす。
○雄略天皇14年庚戊 470
正月、身狭村主青ら、呉国使ならびに呉の献上する手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを伴い、住吉津に到る。
3月、呉人を檜隈野に安置させる。因って同地を呉原と名付ける。
○雄略天皇20年丙辰 476
冬、高麗王、百済を滅ぼす。「百済記」に云わく、「蓋鹵王の乙卯年の冬に、狛の大軍来たりて、・・・王城を降陥し、遂に尉礼国を失う。王と大后・王子等、皆敵手に没ちぬ」という。
雄略天皇21年丁巳 477
3月、天皇、百済が高麗に滅ぼされると聞き、久麻那利を▽王(文周王)に賜い、その国を復興させる。
(▽は、部首ニスイに文)。
○雄略天皇23年己未 479
4月、百済の三斤王、没す。天皇、昆支王の5子の中で、若くして聡明な未多王を召し、百済の王とさせる。よって兵器を賜い、筑紫国の軍士500人を添えて百済に送る。これが東城王である。
是歳、百済の調賦が例年を勝っていた。筑紫の安致臣らが船師を率いて高麗を撃つ。
8月、天皇、没す。この頃、征新羅将軍吉備尾代が蝦夷を率いて出征の途中、吉備において天皇の死去を知った蝦夷が反乱を起こす。
4月、百済蓋鹵王(加須利君)、他津媛が殺されたと聞き、「今後、女に貢つるべからず」といい、さらに弟の軍君(△支)に日本に行って天皇に仕えるべきことを命じる。軍君、出発に先立ち、王の妃の降嫁を請う。王、みごもった妃を軍君と結婚させた上で、「もし道中で子供が産まれたならば、ただちに母子を送り返すように」と述べ、日本に出発させる。
6月、朔日、妃、筑紫の各羅島で子を産む。「島君」と名付け、百済に送り返す。これが武寧王である。百済人は、その島を「主島」と呼んだ。
7月、軍君、入京。「百済新撰」に云わく、「辛丑年(461)、蓋鹵王王弟▽支君を遣わし、大倭に向かわせる。先王の好みなり。」と。(▽は王に昆)
○雄略天皇6年壬寅 462
4月、呉国、遣使貢献。
○雄略天皇7年癸卯 463
是歳、天皇、吉備上道臣田狭の妻稚媛を女御としようと思い、田狭を任那国司に任ず。しばらくして、天皇、稚媛を召す。田狭、任所においてこのことを聞き、新羅に援助を求める。時に新羅、日本に朝貢せず。天皇、田狭の子弟君らに新羅征討を命じる。弟君、百済を経て新羅に到るが、路の遠いことを聞かされ、伐たずして引き返す。百済の貢上した今来の才伎とともに滞留を続ける。田狭、密かに使者を弟君のもとに送り、汝は百済を拠点とし、吾は任那を拠点として、日本には通じまい、と伝える。弟君の妻樟媛は、この謀叛をにくみ、夫を殺し、才伎らを率いて、大島に到る。
○雄略天皇8年甲辰 464
2月、身狭村主青らを、呉国に遣わす。天皇即位以来8年、新羅、朝貢せず。日本を懼れて高麗と好みを結ぶ。高麗王、兵を使わして新羅を守る。しかし高麗の真意が新羅侵略にあることを知った新羅は、国内の高麗兵をことごとく殺す。一人逃げ帰った兵から聞いた高麗王は、直ちに遠征軍を派遣。新羅王、任那に遣使して、救援を「日本府軍元帥等」に求める。任那王、膳臣斑鳩らに勧めて新羅を救援させる。膳臣斑鳩ら、高麗軍を討ち破り、新羅王に、今後日本に背くことがないように、と語る。
○雄略天皇9年乙巳 465
3月、天皇、新羅親征を企てるが、臣下の反対で止める。紀小弓宿禰らに詔して、即位以来の新羅の無礼を述べ、討伐を命じる。紀小弓宿禰ら、新羅に到り、進軍して、トクの地を占領するが、将兵の死する者多く、紀小弓宿禰は病没する。
5月、紀小弓宿禰の子大磐宿禰が新羅に向かい、指揮権を奪い執る。このため、日本軍に内紛が起こる。
○雄略天皇10年丙午 466
9月、身狭村主青、呉の献上する2羽の鵞鳥を携えて筑紫に帰着。
○雄略天皇12年戊申 468
4月、身狭村主青らを呉に遣わす。
○雄略天皇14年庚戊 470
正月、身狭村主青ら、呉国使ならびに呉の献上する手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを伴い、住吉津に到る。
3月、呉人を檜隈野に安置させる。因って同地を呉原と名付ける。
○雄略天皇20年丙辰 476
冬、高麗王、百済を滅ぼす。「百済記」に云わく、「蓋鹵王の乙卯年の冬に、狛の大軍来たりて、・・・王城を降陥し、遂に尉礼国を失う。王と大后・王子等、皆敵手に没ちぬ」という。
雄略天皇21年丁巳 477
3月、天皇、百済が高麗に滅ぼされると聞き、久麻那利を▽王(文周王)に賜い、その国を復興させる。
(▽は、部首ニスイに文)。
○雄略天皇23年己未 479
4月、百済の三斤王、没す。天皇、昆支王の5子の中で、若くして聡明な未多王を召し、百済の王とさせる。よって兵器を賜い、筑紫国の軍士500人を添えて百済に送る。これが東城王である。
是歳、百済の調賦が例年を勝っていた。筑紫の安致臣らが船師を率いて高麗を撃つ。
8月、天皇、没す。この頃、征新羅将軍吉備尾代が蝦夷を率いて出征の途中、吉備において天皇の死去を知った蝦夷が反乱を起こす。
これは メッセージ 3209 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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