日韓歴史論争

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 「韓国の歴史」

投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2006/05/03 01:50 投稿番号: [2625 / 6952]
  >倭は百済の付属国家

  韓国のソース(ラジオKBSワールド)には「付属国家」とはかいてなかったのですが・・

  ↓「クリック韓国の歴史」より「百済の全盛期」
http://world.kbs.co.kr/japanese/korea/korea_click_detail.htm?No=62
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〜略〜
風納土城の場合は、土で城壁を作るのに、小さな砂利や石も使わないで、微細な土だけで巨大な土城を完成させたということは、大規模な動員ができた専制王制の存在を物語っているのです。そのような技術は今も日本の九州や近畿地方に残っている朝鮮式の山城で発見することができます。百済が滅亡した後、日本に渡った人々の技術によって築かれたものです。

初期百済の都の跡地からは、3世紀半ば頃の中国の場子江の南部で作られた土器や日本で作られた土器や5世紀頃の慶尚南道、すなわち加羅の土器も発見されました。当時の風納土城は、中国の南朝や倭(やまと)、加羅との活発な交流が行われた東アジアの交流の舞台だったのです。

4世紀後半に30年間在位した近肖古(クンチョゴ)王の時、百済は全盛期を迎えます。その領土は南は南海岸まで、北は平壌城の手前まで、そして韓半島の中部一帯を掌握したとみられます。近肖古王は韓半島の南にあった加羅にまで手を伸ばして影響力を行使し、その後は高句麗に矢先を向け、371年には大同江流域にある平壌城を攻撃しました。その戦争で、 近肖古王は高句麗の故国原王を戦死させる戦果を挙げ、百済は史上最大の領域を掌握しました。また彼は王の権力の強化を図るため、王位の継承を父子相続に変え、また王妃となる家柄も決めて、王室の支持基盤を固定化させました。強力な王制が中心になった国家形態を確立したのです。そして国の歴史書も編さんします。


しかし近肖古王が死んだ後、百済は衰退し始め、高句麗の広開土大王、続いて長寿王の南下政策によって最大の危機に直面するようになります。百済は 、ソウルの漢城までも失ってしまいます。仕方なく当時、熊津と言った今の公州に移るしかありませんでした。歴史的に韓半島では漢江を掌握した民族や国家が一番強力な国家になることができたといえます。

そのような百済の危機状況を立て直したのが第25代王の武寧(ムリョン)王でした。彼は王の権力の強化と国民生活の安定のためにいろいろな施策を取ります。 また武寧王は高句麗を牽制するために中国の南朝と緊密な関係を築き、先進文物も受け入れ、国力の向上を図ったのです。新羅を牽制するために、日本に先進文物を伝えて、その代わりに日本からは軍事力の支援を受けました。「三国史記」でも武寧王は国民生活の安定をはかり、506年の飢饉の時の救済政策や、堤防の建設、農業の奨励など、国民の支持と信頼を得ることができたと記されています。そのお陰で彼の息子の聖王の代になると再び復興の兆しが現れてきます。

1971年に発掘された武寧王の墓からは、武寧王についての記録を刻んだ石の碑文が発見されました。これで墓の主人公が武寧王であることが明らかになり、墓の主人公が誰だか分かった唯一の王陵となりました。また彼の在位の期間と時期などが明らかにされました。〜後略
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  「歴史スペシャル」ではどのようにとりあげているのでしょう。
  (まだそこまで放送されていないかもしれませんけれど)

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