Re: れRe: >オゴルという行為
投稿者: doronpa95 投稿日時: 2006/11/23 12:31 投稿番号: [4468 / 9237]
>・・「業」ですかぁ・・・
>ますます、難しいなぁ・・・
日本語では「怨」(対象は他人)と「恨」(対象は自分の業)「憾」(対象は自分自身の心=反省)のとなっているようですが、あきらかに最近の朝鮮人は「怨」に見えますよね。
インドネシアの考え方に「魂」−「心」−「肉」のバランスというのがあります。
心は精神のことだとすると、朝鮮人の精神性が理解しやすいんじゃないかと思います。
朝鮮人以外は「心・精神」を重要視しますが、朝鮮人はそれ以上に「魂」を重要視しているのではないでしょうか?
>「魂」−「心」−「肉」を一緒に考えるのではなく、区分識別してみるのである。
肉体は肉体的な欲求が伴う。疲れれば眠くなる。腹が空けばおいしい物を食べたくなる。性欲や、名誉欲など肉体を元にした欲(煩悩)が発生する。髪の毛が伸びるように、ひげが伸びるように切っても剃ってもまたのびてくるのである。
しかし「魂」の世界ではこのような限界は何もない。魂の世界では思ったら即、自分の思いのままの世界といわれている。何もかも思いのままの世界であれば自分と他人の間に比較する物は何も出ず、肉体を元にして起こりうる煩悩とは無縁の聖域であろう。
>私たちの「心(想い、考え方)」がもし「肉」の方向に向いたら、私たちは獣(けだもの)として生きることになる。自分勝手に生活し、欲しい物は何でも手に入れたいと思い、むさぼるだけむさぼり他人のことは考えず自己保存のみの生き方になるだろう。
それでは、「心」が「魂」の方向のみに向けばいいのか。一見良さそうだが、これも間違いである。私たちは理想的なことばかりのたまい、何もせず木の上にぶら下がる怠け者になるだろう。世捨て人となって他を嘲り、孤独の人となるだろう。
この世にてけだものを取るか怠け者になるか。どちらも嫌である。
私たちの「心」にてバランスを取り、美しい三角形を作ることこそ私たちの勤めであるのではないか。
http://www.j-mind.com/world/bari.htm>>「魂」の世界ではこのような限界は何もない。魂の世界では思ったら即、自分の思いのままの世界といわれている。何もかも思いのままの世界であれば自分と他人の間に比較する物は何も出ず、肉体を元にして起こりうる煩悩とは無縁の聖域であろう。
普段自分の「魂」の世界に浸っていて「肉=現実世界」に戻った時にまで引きずっている。
だから他人の身になって考えたり、他人との比較する尺度がおかしい。
放火や強姦など自分勝手な犯罪が後を絶たない。
「心=精神」を軽視しているから美術品を愛でたり、職人芸に感嘆できない。
いかがでしょうか?
これは メッセージ 4460 (pretzs002 さん)への返信です.
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