水沼啓子が金大中を語る
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2009/08/18 15:30 投稿番号: [8921 / 10735]
彼女、半島ベッタリだからなあ・・・
【金大中氏死去】韓国現代政治史を体現した波乱の人生
2009.8.18 14:13
【ソウル=水沼啓子】金大中氏は国会議員選挙、大統領選挙にそれぞれ3度落選した。半世紀を超える政治家人生の中で、6年の投獄生活、3年の亡命生活、6年半に及ぶ自宅軟禁を経験。そして交通事故や拉致事件、死刑判決など何度も死に直面する試練を乗り越えてきた。開発独裁、軍政、民主化の間で揺れ動いた韓国現代政治史を体現した一生だったといえる。
韓国南部の全羅南道荷衣島(現・新安郡)で生まれた。1943年に旧制木浦商業高校を卒業後、左翼系政治組織「新民党」の木浦市党組織部長として政治活動を始めた。61年に国会議員に初当選、71年には野党・新民党候補として大統領選に初めて挑戦した。
選挙では現職の朴正煕大統領に敗れたが、予想を上回る善戦だった。大統領選直後、交通事故に遭い、この時のけがで歩行は一生不自由になった。「民主化の闘士」と呼ばれた人生はこれを機に暗転していく。
朴政権下、海外での反政府活動のため出国。日本滞在中の73年8月、東京のホテルで、韓国中央情報部(KCIA)に拉致される「金大中事件」が起きた。KCIAは金大中氏を海に投げ込む寸前に殺害を断念、暗殺未遂に終わった。
76年には「民主救国宣言」を発表して逮捕されたが、後に釈放された。80年の民主化運動「ソウルの春」で再逮捕。そして、民主化デモを軍が鎮圧し多数の犠牲者を出した「光州事件」では、デモを扇動した首謀者として逮捕、死刑判決を受けるに至った。
◇◇
しかし82年に減刑されて出国、米国へ亡命した。85年に帰国し、87、92年に大統領選に出馬し、いずれも落選の憂き目を見た。
4度目の挑戦となる97年の大統領選では「野合」との非難を受けながらも、金鍾泌氏ら保守勢力と手を組み、当選への執念を燃やした。保守陣営の分裂という事情も手伝って小差で当選。韓国政治史において初の革新政権を発足させた。
以降、南北関係は対決から対話の時代に転換する。2000年には南北首脳会談を実現させ、ノーベル平和賞を受賞した。ただ、金大中氏とその後の盧武鉉氏の2代にわたる親北政権は、対北政策で陰の部分ももたらした。対価を求めない一方的な対北支援は、計1兆7800億ウォン(約1380億円)に上った。
昨年、李明博氏の大統領就任で保革が逆転すると、自らの対北融和政策(太陽政策)について、「韓国の支援の傍らで北朝鮮は核開発を進めた。人権問題も何一つ改善しなかった」との批判を浴びることになる。
◇◇
韓国では過去の日本の統治時代を想起するなどとして、映画や漫画など日本の大衆文化の上映、出版などは長く禁止されていた。日本文化の開放を決断したのが金大中政権だった。
「未来志向」の日韓関係を唱え、大統領就任後、日本映画の上映や歌謡公演などを段階的に解禁。サッカーのワールドカップ日韓共同開催も実現した。しかし「未来志向」にあっても、歴史問題では対日非難外交の殻を破れなかった。
金泳三元大統領、金鍾泌元首相とともに、韓国政治の「3金時代」を築いた金大中氏は、革新・左翼勢力の支柱であり続けた。
【金大中氏死去】韓国現代政治史を体現した波乱の人生
2009.8.18 14:13
【ソウル=水沼啓子】金大中氏は国会議員選挙、大統領選挙にそれぞれ3度落選した。半世紀を超える政治家人生の中で、6年の投獄生活、3年の亡命生活、6年半に及ぶ自宅軟禁を経験。そして交通事故や拉致事件、死刑判決など何度も死に直面する試練を乗り越えてきた。開発独裁、軍政、民主化の間で揺れ動いた韓国現代政治史を体現した一生だったといえる。
韓国南部の全羅南道荷衣島(現・新安郡)で生まれた。1943年に旧制木浦商業高校を卒業後、左翼系政治組織「新民党」の木浦市党組織部長として政治活動を始めた。61年に国会議員に初当選、71年には野党・新民党候補として大統領選に初めて挑戦した。
選挙では現職の朴正煕大統領に敗れたが、予想を上回る善戦だった。大統領選直後、交通事故に遭い、この時のけがで歩行は一生不自由になった。「民主化の闘士」と呼ばれた人生はこれを機に暗転していく。
朴政権下、海外での反政府活動のため出国。日本滞在中の73年8月、東京のホテルで、韓国中央情報部(KCIA)に拉致される「金大中事件」が起きた。KCIAは金大中氏を海に投げ込む寸前に殺害を断念、暗殺未遂に終わった。
76年には「民主救国宣言」を発表して逮捕されたが、後に釈放された。80年の民主化運動「ソウルの春」で再逮捕。そして、民主化デモを軍が鎮圧し多数の犠牲者を出した「光州事件」では、デモを扇動した首謀者として逮捕、死刑判決を受けるに至った。
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しかし82年に減刑されて出国、米国へ亡命した。85年に帰国し、87、92年に大統領選に出馬し、いずれも落選の憂き目を見た。
4度目の挑戦となる97年の大統領選では「野合」との非難を受けながらも、金鍾泌氏ら保守勢力と手を組み、当選への執念を燃やした。保守陣営の分裂という事情も手伝って小差で当選。韓国政治史において初の革新政権を発足させた。
以降、南北関係は対決から対話の時代に転換する。2000年には南北首脳会談を実現させ、ノーベル平和賞を受賞した。ただ、金大中氏とその後の盧武鉉氏の2代にわたる親北政権は、対北政策で陰の部分ももたらした。対価を求めない一方的な対北支援は、計1兆7800億ウォン(約1380億円)に上った。
昨年、李明博氏の大統領就任で保革が逆転すると、自らの対北融和政策(太陽政策)について、「韓国の支援の傍らで北朝鮮は核開発を進めた。人権問題も何一つ改善しなかった」との批判を浴びることになる。
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韓国では過去の日本の統治時代を想起するなどとして、映画や漫画など日本の大衆文化の上映、出版などは長く禁止されていた。日本文化の開放を決断したのが金大中政権だった。
「未来志向」の日韓関係を唱え、大統領就任後、日本映画の上映や歌謡公演などを段階的に解禁。サッカーのワールドカップ日韓共同開催も実現した。しかし「未来志向」にあっても、歴史問題では対日非難外交の殻を破れなかった。
金泳三元大統領、金鍾泌元首相とともに、韓国政治の「3金時代」を築いた金大中氏は、革新・左翼勢力の支柱であり続けた。
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