沖縄でウリは惨殺されたニダ1
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/08/27 04:47 投稿番号: [7882 / 10735]
沖縄
全島要塞化に朝鮮人軍夫を動員
宮古島の米空襲で千人以上が犠牲に
1944年以前の沖縄は、「国内でもめずらしいぐらい戦争とは無縁の島々でした。戦備らしいものは何一つなく、郷土部隊をもたない唯一の県」(「読谷村史・5」)だった。しかし、ミッドウェー海戦の大敗後、日本軍の戦力は低下し、南洋群島は相次いで連合国軍の手に落ち、日本本土攻略へ向けて侵攻をはじめた。沖縄に攻めてくることが確実になったので日本軍部は、沖縄に南西諸島守備軍(第32軍)を創設したが、実戦部隊が来たのはサイパン島が落ちる直前の6月だった。しかし、「第32軍の任務は、沖縄を本土として守り抜くことではなく、出血消耗によってアメリカ軍を沖縄に釘付けにし、防波堤となることでした。これによって本土決戦を準備し、沖縄は時間稼ぎの持久戦の場」(「沖縄戦のはなし」)とし、天皇制を守り抜こうとしたのだ。
守備軍は、沖縄で米軍と戦うため、飛行場建設や、陣地構築の作業を強行した。だが、地上戦が始まる前から沖縄の海や空は連合国軍に押さえられ、武器弾薬や食糧の補給はできない状態になっていた。守備軍の兵力では不足なので、徴用の名で働くことができる男女を動員したほか、食糧や資材などを供出させた。それでも労働力が不足して沖縄の要塞化が進まないので守備軍は、朝鮮から「軍夫」として沖縄に強制連行をしてきた。荷積作業に従事した人は「水勤隊」(特設水上勤務中隊)と呼ばれたが、実数はいまだに不明で、「1〜2万人の軍夫、千人以上の慰安婦」と言われている。国や県は調査をしていないため、統計にもない。
最初に朝鮮人軍夫が沖縄に上陸したのは、1944年8月10日だったという。上陸したものの宿舎がなく、那覇港から東町山城屋までの道路脇に野宿させられた。
「那覇港近くの那覇郵便局のあった場所に、球部隊の兵站本部があった。ここに毎朝、朝鮮人軍夫が集結して各地へ派遣され、夕方には同じ場所に帰ってきた」(「沖縄に連行された朝鮮の若者たち」)
この頃の沖縄は、あげて米軍迎撃準備中で、各地の突貫工事現場では、朝鮮人軍夫を必要としていた。とくに飛行場建設と、全島を要塞化する工事が強化された。各地で行われた飛行場設営の中でも、朝鮮人軍夫の犠牲が大きかったのは宮古島だと言われている。本島の8分の1の小さな島に、陸海の二つの飛行場を設営することになり、約1500人の朝鮮人軍夫が動員された。宮古島には、住民6万人、陸海軍3万人がいて工事をしていたが、制空海権を喪失して孤立した島になっていたので、主食や医薬品が底をついていた。しかも、飛行場設営の機材はなく、スコップ、ツルハシ、モッコだけを頼りに、三交代で働くため、栄養失調になっていた。とくに、朝鮮人軍夫は日本人の倍近く働かされる上に、食料の配給はしなかったので、飢えとマラリアで次々と死へ追いつめられた。
2に行きます。
宮古島の米空襲で千人以上が犠牲に
1944年以前の沖縄は、「国内でもめずらしいぐらい戦争とは無縁の島々でした。戦備らしいものは何一つなく、郷土部隊をもたない唯一の県」(「読谷村史・5」)だった。しかし、ミッドウェー海戦の大敗後、日本軍の戦力は低下し、南洋群島は相次いで連合国軍の手に落ち、日本本土攻略へ向けて侵攻をはじめた。沖縄に攻めてくることが確実になったので日本軍部は、沖縄に南西諸島守備軍(第32軍)を創設したが、実戦部隊が来たのはサイパン島が落ちる直前の6月だった。しかし、「第32軍の任務は、沖縄を本土として守り抜くことではなく、出血消耗によってアメリカ軍を沖縄に釘付けにし、防波堤となることでした。これによって本土決戦を準備し、沖縄は時間稼ぎの持久戦の場」(「沖縄戦のはなし」)とし、天皇制を守り抜こうとしたのだ。
守備軍は、沖縄で米軍と戦うため、飛行場建設や、陣地構築の作業を強行した。だが、地上戦が始まる前から沖縄の海や空は連合国軍に押さえられ、武器弾薬や食糧の補給はできない状態になっていた。守備軍の兵力では不足なので、徴用の名で働くことができる男女を動員したほか、食糧や資材などを供出させた。それでも労働力が不足して沖縄の要塞化が進まないので守備軍は、朝鮮から「軍夫」として沖縄に強制連行をしてきた。荷積作業に従事した人は「水勤隊」(特設水上勤務中隊)と呼ばれたが、実数はいまだに不明で、「1〜2万人の軍夫、千人以上の慰安婦」と言われている。国や県は調査をしていないため、統計にもない。
最初に朝鮮人軍夫が沖縄に上陸したのは、1944年8月10日だったという。上陸したものの宿舎がなく、那覇港から東町山城屋までの道路脇に野宿させられた。
「那覇港近くの那覇郵便局のあった場所に、球部隊の兵站本部があった。ここに毎朝、朝鮮人軍夫が集結して各地へ派遣され、夕方には同じ場所に帰ってきた」(「沖縄に連行された朝鮮の若者たち」)
この頃の沖縄は、あげて米軍迎撃準備中で、各地の突貫工事現場では、朝鮮人軍夫を必要としていた。とくに飛行場建設と、全島を要塞化する工事が強化された。各地で行われた飛行場設営の中でも、朝鮮人軍夫の犠牲が大きかったのは宮古島だと言われている。本島の8分の1の小さな島に、陸海の二つの飛行場を設営することになり、約1500人の朝鮮人軍夫が動員された。宮古島には、住民6万人、陸海軍3万人がいて工事をしていたが、制空海権を喪失して孤立した島になっていたので、主食や医薬品が底をついていた。しかも、飛行場設営の機材はなく、スコップ、ツルハシ、モッコだけを頼りに、三交代で働くため、栄養失調になっていた。とくに、朝鮮人軍夫は日本人の倍近く働かされる上に、食料の配給はしなかったので、飢えとマラリアで次々と死へ追いつめられた。
2に行きます。
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