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在日朝鮮人運動史の中のウトロ 1

投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/02/28 18:22 投稿番号: [6870 / 10735]
  既報のように、総連京都府本部では「ウトロ同胞支援募金運動」を大衆的に推し進めている。ウトロ同胞への支援は、日本の植民地政策によって強制連行された同胞たちの「戦後補償」、過去清算の一環であり、同胞の生存権を守るためのたたかいである。「ウトロ問題」が発生した歴史的背景について紹介する。【京都支局】

たたかいの歴史

  ウトロの歴史は運動の歴史でもある。それは差別と抑圧に対するたたかいの歴史であるとともに、同胞組織が歩んできた歴史でもある。

  1945年8月15日、解放を迎えたウトロ同胞たちの歓喜の陰で、飛行場建設事業を請け負っていた国策会社幹部らは資料を持ち出し、ウトロから逃げ出した。これにより、同胞たちは何の補償もなしに、「失業者」として放置されたのである。

  解放の喜びに浸るのも束の間、同胞たちは深刻な生活苦に直面する。飛行場建設跡地は米軍により接収され、駐日米軍駐屯地が設置される。同胞たちが暮らしている飯場(現在のウトロ集落)もその接収対象となっていく(米軍が接収した地域は、現在の陸上自衛隊大久保駐屯地)。

  しかしウトロの同胞たちは、どん底の中でも団結してたたかい、そしてたくましく生活の基盤を築いていく。

  ウトロ集落には、解放直後にほかの地域でもそうであったように、民族学校(国語講習所)が45年9月に自主的に建てられ運営されていく。ウトロの中で読み書きができる同胞が教師を務めた。「学校」とは名ばかりの施設ではあったが、当時通った同胞たちによると「素晴らしい」学校だったという。

  民族学校が運営された建物が現在の総連南山城支部であり、当時の朝聯(在日本朝鮮人聯盟)の事務所でもあった場所である。現在、支部の前には住民たちが「ウトロ広場」と呼ぶ広場があるが、ここは民族学校の運動場であった場所である。

  同胞たちは朝聯を中心に固く団結し、米軍が銃剣を振りかざし、飯場跡からの立退きを武力により威嚇してきてもひるまずにたたかい、生活拠点のすべてであった集落を死守する。当時、米軍は同胞に向かって威嚇のために実弾射撃を行い、数人の同胞たちが被弾、負傷した。

  朝鮮戦争の前年である49年、朝聯組織と民族学校は強制的に解散させられた。民族学校が強制閉鎖された時、教壇を叩きながら泣いていた先生の姿が今も忘れられない、と当時を記憶する同胞は話す。

  しかしウトロ同胞たちは、戦争勃発後も祖国防衛のための闘争を繰り広げる。集落に隣接する米軍駐屯地から朝鮮への軍需物資輸送等がなされていたことから、そのたたかいは熾烈なものであった。そのような中、ウトロは戦争中の52年、二度にわたり警察の強制捜査を受けている。容疑は「スパイ容疑」である。

  55年の総連結成により、運動は新しい段階に進むことになる。朝鮮民主主義人民共和国の国際的権威と同胞愛あふれる海外同胞施策のもと、世界でも類をみない海外同胞運動の歴史を切り開いていくことになる。

  60年代中盤には支部の合併などがなされ、現在の南山城支部となり、活動の拠点をトロに移すことになった。当時、南山城地域には宇治支部、綴喜支部、相楽支部の3支部があったが、これらが統合されて南山城支部となった。現在の支部事務所は、当時までは伊勢田分会事務所であった。

  南山城地域での在日朝鮮人運動においてウトロは常にその中心であり、また先頭に立っていたといえる。


2に続きます。
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