75年のベトナム脱出
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/01/15 11:50 投稿番号: [6215 / 10735]
記事入力 : 2008/01/15 11:28:45
75年のベトナム脱出、劇的な成功の裏側
当時の2等書記官の手記公開
1975年、当時の南ベトナム(ベトナム共和国)が北ベトナム(ベトナム民主共和国)に敗れた際、駐ベトナム韓国大使館のキム・チャングン2等書記官が一部の在留韓国人を連れて首都サイゴン(現ホーチミン市)からの劇的な脱出に成功するまでの過程をしたためた手記が公開された。この手記は、14日に外交通商部が公開した外交文書の中に含まれていた。キム書記官は以後、コスタリカ・カザフスタン大使を経て96年に退任した。以下は手記の要約。
4月28日、駐ベトナム韓国大使館はベトナム脱出のため米国大使館との協調体制を確立し、29日米国大使館に向かった。韓国側は「航空機1機を渡すから準備せよ」と言われたが、米国大使館は自国の国民を優先してヘリコプターで脱出させ、韓国大使館の職員と在留韓国人は後回しにされた。
30日、イ・テヨン公使の指揮の下、最後のヘリに乗るため努力したが、警備に立つ米海兵隊は催涙弾まで使って韓国人を阻止した。結局、われわれ韓国大使館員と100人余りの在留韓国人は取り残された。
残された人々は、ほかの外国大使館に救助を要請した。フランス大使館では出入りを妨げられた。日本大使は「われわれも無力だ」と話して途中で席を外し、下位の職員は贈り物のボールペンを手渡し、「われわれに累が及ぶことはご遠慮ください」と語った。公館員らは、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線の俗称)に捕まるよりは死んだ方がましだといって病院に行き、「自殺するための薬をくれ」と言ったが、病院側はわれわれを追い出した。
3日、ブンタウのそばのロンハイを通って海に脱出する方法が浮かび、わたしはわずかな在留韓国人を連れて出発した。ほかの公館員らは、「余りにも無謀だ」と言って誰もついて来なかった。午後2時、ようやくロンハイに到着し、金を払って船を手配し海へ出た。ところが船長がこちらの言うことを聞かなかったため、一行は船長を監禁して直接船を運航した。
5日、台湾の船に出会った。その船の船長と交渉し、一部の者はその船に乗り、残りはそれまで乗って来た船で台湾の船について行くことにした。7日、台湾船の船長が再び「水と油を上げるから降りてくれ」と言うため、どうすることもできず、もともと乗って来た船に乗り移った。
8日、シンガポールが見えてきた。ところが警備艇が上陸を許さなかった。結局、わたし一人が陸地に上がり、現地の領事と会って事のいきさつを説明した。9日に残りの一行も上陸し、われわれは11日、無事にソウルへ帰還した。
イム・ミンヒョク記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
他のところの「ウリは嫌われていたニダ」と詳細に説明するところはどうでも良いが、
>ところが船長がこちらの言うことを聞かなかったため、一行は船長を監禁して直接船を運航した。
これ、海賊行為ではありませんか!!!
75年のベトナム脱出、劇的な成功の裏側
当時の2等書記官の手記公開
1975年、当時の南ベトナム(ベトナム共和国)が北ベトナム(ベトナム民主共和国)に敗れた際、駐ベトナム韓国大使館のキム・チャングン2等書記官が一部の在留韓国人を連れて首都サイゴン(現ホーチミン市)からの劇的な脱出に成功するまでの過程をしたためた手記が公開された。この手記は、14日に外交通商部が公開した外交文書の中に含まれていた。キム書記官は以後、コスタリカ・カザフスタン大使を経て96年に退任した。以下は手記の要約。
4月28日、駐ベトナム韓国大使館はベトナム脱出のため米国大使館との協調体制を確立し、29日米国大使館に向かった。韓国側は「航空機1機を渡すから準備せよ」と言われたが、米国大使館は自国の国民を優先してヘリコプターで脱出させ、韓国大使館の職員と在留韓国人は後回しにされた。
30日、イ・テヨン公使の指揮の下、最後のヘリに乗るため努力したが、警備に立つ米海兵隊は催涙弾まで使って韓国人を阻止した。結局、われわれ韓国大使館員と100人余りの在留韓国人は取り残された。
残された人々は、ほかの外国大使館に救助を要請した。フランス大使館では出入りを妨げられた。日本大使は「われわれも無力だ」と話して途中で席を外し、下位の職員は贈り物のボールペンを手渡し、「われわれに累が及ぶことはご遠慮ください」と語った。公館員らは、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線の俗称)に捕まるよりは死んだ方がましだといって病院に行き、「自殺するための薬をくれ」と言ったが、病院側はわれわれを追い出した。
3日、ブンタウのそばのロンハイを通って海に脱出する方法が浮かび、わたしはわずかな在留韓国人を連れて出発した。ほかの公館員らは、「余りにも無謀だ」と言って誰もついて来なかった。午後2時、ようやくロンハイに到着し、金を払って船を手配し海へ出た。ところが船長がこちらの言うことを聞かなかったため、一行は船長を監禁して直接船を運航した。
5日、台湾の船に出会った。その船の船長と交渉し、一部の者はその船に乗り、残りはそれまで乗って来た船で台湾の船について行くことにした。7日、台湾船の船長が再び「水と油を上げるから降りてくれ」と言うため、どうすることもできず、もともと乗って来た船に乗り移った。
8日、シンガポールが見えてきた。ところが警備艇が上陸を許さなかった。結局、わたし一人が陸地に上がり、現地の領事と会って事のいきさつを説明した。9日に残りの一行も上陸し、われわれは11日、無事にソウルへ帰還した。
イム・ミンヒョク記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
他のところの「ウリは嫌われていたニダ」と詳細に説明するところはどうでも良いが、
>ところが船長がこちらの言うことを聞かなかったため、一行は船長を監禁して直接船を運航した。
これ、海賊行為ではありませんか!!!
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