済州島のミカン
投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2007/12/04 17:39 投稿番号: [2165 / 6487]
北韓国に送ったり、色々派手なことやっていますので、
改めて貼っておきます。
済州みかん 日本から運んだ苗木400万本
中国産農産物などに押され、韓国の食料自給率は下がってきている。「韓国産が世界最高」といわれる高麗人参や漢方薬でさえ、中国産の脅威に怯える有様だ。そんな中で国産100%の作物がある。「済州みかん」だ。数少ない自給率100%のこのみかんは、50年ほど前、日本から持ち込まれた。
人に例えれば「韓国に帰化した日本人」のような済州みかん。今や堂々たる韓国産だ。
1955年、済州みかんは前年の2倍の収穫を得た
「済州みかん」が韓国ブランドとして認知されるまでになった成功の陰には、人知れぬ在日韓国人の努力があった。
1954年、済州のみかん生産量は87トン。解放直後、1945年の80トンと大きな差はない。
ところが翌55年、10年間ほとんど変わらなかった生産量は、急に2倍(172トン)に増えた。日本からみかんの苗木が入ってきたからだ。
1955年から日本のみかんが導入されたという記録はあるものの、誰がどこからどのように、どれほどの量の苗木を持ち込んだかは、ほとんど明らかになっていない。
済州のみかん農家の証言から、確かな事実が明らかになる。
「在日韓国人一人ひとり、少なくとも数百本から多くは何千本という苗木を持ち込んだ」
1950年代中頃から在日韓国人がみかんの苗木を済州に持って来たという記述が、済州農協と済州道政白書などの記録に、ごくわずかながら残っている。
1962年、在日済州開発協会の第1次郷土訪問団に参加した金坪珍会長(当時)は、済州のみかん栽培がいかにして始まったかに言及している。
「あの時苗木500本を飛行機の手荷物として持って行った。おそらくそれが済州みかん普及の始まりだった」
証言に登場した500本の苗木は、済州開発協会が済州に贈った物の一つだった。済州訪問に先立ち、済州開発協会は何を土産にしようか悩んだに違いない。済州の人たちが何を必要としているか、考えた末に選ばれたのはみかんだった。
在日済州開発協会は「みかんの苗木寄贈」に傾注した。
苗木を送るのは容易ではなかった。
韓国政府からの輸入許可を得るのが第一の関門だった。手続きも複雑だった。
済州まで持っていったとしても、税関で通関拒否されたり、高い関税をかけられたりしたことは一度や二度ではなかった。税関の倉庫で1週間以上保管されることも多かった。苗木の持ち込みをサポートする行政の受け入れ態勢が整っていなかった。
1965年3月、朴正煕大統領は「在日韓国人が寄贈するみかんの苗木は、法を変えてでも通関するように」と指示した。その後、「寄贈規制」は少しずつなくなった。
政府は農漁民により多くの所得をもたらすとして、みかん栽培を奨励。一九六九年には、みかん農家の意欲向上のため「みかん賞」を制定した。
在日済州開発協会の活動が最盛期を迎えたのもこの時期だった。
協会次元で寄贈した苗木の数は、69年には32万1000本、翌70年には43万本にものぼった。
個人による苗木寄贈はさらに多かった。
1970年だけで見ても、250の個人が155万本の苗木を寄贈したという。
日本から持ち込まれた苗木の数は、文献によって異なる。少ないものでは349万本。多いものでは425万本とある。
確かなのは、済州道にあるみかんのほとんどは、在日韓国人が個人・団体を通じて寄贈したものだということだ。
(掲載されているのが「統一日報」というのが笑えます。)
改めて貼っておきます。
済州みかん 日本から運んだ苗木400万本
中国産農産物などに押され、韓国の食料自給率は下がってきている。「韓国産が世界最高」といわれる高麗人参や漢方薬でさえ、中国産の脅威に怯える有様だ。そんな中で国産100%の作物がある。「済州みかん」だ。数少ない自給率100%のこのみかんは、50年ほど前、日本から持ち込まれた。
人に例えれば「韓国に帰化した日本人」のような済州みかん。今や堂々たる韓国産だ。
1955年、済州みかんは前年の2倍の収穫を得た
「済州みかん」が韓国ブランドとして認知されるまでになった成功の陰には、人知れぬ在日韓国人の努力があった。
1954年、済州のみかん生産量は87トン。解放直後、1945年の80トンと大きな差はない。
ところが翌55年、10年間ほとんど変わらなかった生産量は、急に2倍(172トン)に増えた。日本からみかんの苗木が入ってきたからだ。
1955年から日本のみかんが導入されたという記録はあるものの、誰がどこからどのように、どれほどの量の苗木を持ち込んだかは、ほとんど明らかになっていない。
済州のみかん農家の証言から、確かな事実が明らかになる。
「在日韓国人一人ひとり、少なくとも数百本から多くは何千本という苗木を持ち込んだ」
1950年代中頃から在日韓国人がみかんの苗木を済州に持って来たという記述が、済州農協と済州道政白書などの記録に、ごくわずかながら残っている。
1962年、在日済州開発協会の第1次郷土訪問団に参加した金坪珍会長(当時)は、済州のみかん栽培がいかにして始まったかに言及している。
「あの時苗木500本を飛行機の手荷物として持って行った。おそらくそれが済州みかん普及の始まりだった」
証言に登場した500本の苗木は、済州開発協会が済州に贈った物の一つだった。済州訪問に先立ち、済州開発協会は何を土産にしようか悩んだに違いない。済州の人たちが何を必要としているか、考えた末に選ばれたのはみかんだった。
在日済州開発協会は「みかんの苗木寄贈」に傾注した。
苗木を送るのは容易ではなかった。
韓国政府からの輸入許可を得るのが第一の関門だった。手続きも複雑だった。
済州まで持っていったとしても、税関で通関拒否されたり、高い関税をかけられたりしたことは一度や二度ではなかった。税関の倉庫で1週間以上保管されることも多かった。苗木の持ち込みをサポートする行政の受け入れ態勢が整っていなかった。
1965年3月、朴正煕大統領は「在日韓国人が寄贈するみかんの苗木は、法を変えてでも通関するように」と指示した。その後、「寄贈規制」は少しずつなくなった。
政府は農漁民により多くの所得をもたらすとして、みかん栽培を奨励。一九六九年には、みかん農家の意欲向上のため「みかん賞」を制定した。
在日済州開発協会の活動が最盛期を迎えたのもこの時期だった。
協会次元で寄贈した苗木の数は、69年には32万1000本、翌70年には43万本にものぼった。
個人による苗木寄贈はさらに多かった。
1970年だけで見ても、250の個人が155万本の苗木を寄贈したという。
日本から持ち込まれた苗木の数は、文献によって異なる。少ないものでは349万本。多いものでは425万本とある。
確かなのは、済州道にあるみかんのほとんどは、在日韓国人が個人・団体を通じて寄贈したものだということだ。
(掲載されているのが「統一日報」というのが笑えます。)
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