Re: 自然は厳しいねえ♪
投稿者: stich 投稿日時: 2009/08/27 08:29 投稿番号: [2778 / 2847]
中華圏内の避諱文化のことですかね
ttp://toueironsetsu.web.fc2.com/Column/2005/c20050328.htm
>避諱文化は中国の伝統である。だが今日に至ってその弊害に鑑みて反省の必要ありと考え始めた中国人は少なくない。私もその中の一人である。避諱文化は中国と日本関係における衝突の原因となるだけでなく、それ以外の国家との関係においても少なからぬトラブルの原因となっている。
さらに重要なのは、避諱文化は中国人の虚栄心を満足させる以外には中国にとって何の利益もたらしてはいないということである。その典型的な例が1958年の大躍進である。各地で無限大に誇張された食糧生産高が報告された結果、みな飯はいくら食ってもいいのだと思いこんでいたるところで食糧を浪費し、大量の餓死者を生みだした。
中国の避諱文化が国家にいかに災厄をもたらすかをあらためて示したのはSARSである。SARSは最初、広東で発生した。ところが広東の官員は国家の対面を護るという避諱思考から真実を隠蔽しようとし、何人かの専門家がSARSは治療可能で予防もできる、通常の病気と変わらないと発表した。そのために内陸部で予防措置を講じるのが遅れて大規模な蔓延を招いたのである。SARSの流行には人災の要素が相当ある。
中国人は幼いときから偉い人や国家のために避諱すること、嘘をつくことを教えられる。だから嘘を不道徳と感じなくなる。これが嘘をつくのが中国人の習慣になっていることの副次的な理由である。
最近のことだが、ある小学校で教師の生活を援助する目的で課外授業の教材を作成して児童に購入させ、その売り上げを教師の収入に充てていた。この購買費が児童に過大な負担になっているという告発の声があがって、教育局がその小学校を調査することになった。すると各クラスの担任は児童に、「学校の名誉をまもるために、本当のことは言ってはいけません」と命じたのである。そして児童は調査にやってきた教育局の人間に課外授業の教材など買ったことはありませんと声をそろえて答えた。児童の嘘は、自分のためではなくて学校の過ちを隠し、学校が批判を受けないため、要は他人のための嘘で、典型的な避諱行為である。教師が児童に嘘をつきなさいと教えたら、子供は嘘つきになるに決まっている。
この嘘つきの習慣によって、中国は、虚言とそれから偽物の氾濫する国となった。
どの国の民族の民族性にも良い面と悪い面がある。私は、避諱の文化は中国人の民族性の悪い面の一つで、中国人はこの悪い面を反省して変えなければならないと思っている。偉い人や国家のために都合の悪いことを隠したり、事実を誇張したり、デマをまき散らす伝統をなくさなければならない。当の中国人でさえ、虚言は現代社会と両立しないということに気がついている。だからこの2、3年、中国で“誠信(誠実と信用)”ということがしきりに言われるのである。だが、“誠信”であろうとすれば、まず第一に虚言で国家の対面を保とうとする避諱観念を抛擲しなければならない。いかなる情況においても本当のことを話す人が真の“誠信”の人である。
今日のさまざまな現象を見ると、中国人の思想や思考様式は次第に避諱から離れる方向へ発展し、“誠信”へと近付きつつあると思える。
ttp://toueironsetsu.web.fc2.com/Column/2005/c20050328.htm
>避諱文化は中国の伝統である。だが今日に至ってその弊害に鑑みて反省の必要ありと考え始めた中国人は少なくない。私もその中の一人である。避諱文化は中国と日本関係における衝突の原因となるだけでなく、それ以外の国家との関係においても少なからぬトラブルの原因となっている。
さらに重要なのは、避諱文化は中国人の虚栄心を満足させる以外には中国にとって何の利益もたらしてはいないということである。その典型的な例が1958年の大躍進である。各地で無限大に誇張された食糧生産高が報告された結果、みな飯はいくら食ってもいいのだと思いこんでいたるところで食糧を浪費し、大量の餓死者を生みだした。
中国の避諱文化が国家にいかに災厄をもたらすかをあらためて示したのはSARSである。SARSは最初、広東で発生した。ところが広東の官員は国家の対面を護るという避諱思考から真実を隠蔽しようとし、何人かの専門家がSARSは治療可能で予防もできる、通常の病気と変わらないと発表した。そのために内陸部で予防措置を講じるのが遅れて大規模な蔓延を招いたのである。SARSの流行には人災の要素が相当ある。
中国人は幼いときから偉い人や国家のために避諱すること、嘘をつくことを教えられる。だから嘘を不道徳と感じなくなる。これが嘘をつくのが中国人の習慣になっていることの副次的な理由である。
最近のことだが、ある小学校で教師の生活を援助する目的で課外授業の教材を作成して児童に購入させ、その売り上げを教師の収入に充てていた。この購買費が児童に過大な負担になっているという告発の声があがって、教育局がその小学校を調査することになった。すると各クラスの担任は児童に、「学校の名誉をまもるために、本当のことは言ってはいけません」と命じたのである。そして児童は調査にやってきた教育局の人間に課外授業の教材など買ったことはありませんと声をそろえて答えた。児童の嘘は、自分のためではなくて学校の過ちを隠し、学校が批判を受けないため、要は他人のための嘘で、典型的な避諱行為である。教師が児童に嘘をつきなさいと教えたら、子供は嘘つきになるに決まっている。
この嘘つきの習慣によって、中国は、虚言とそれから偽物の氾濫する国となった。
どの国の民族の民族性にも良い面と悪い面がある。私は、避諱の文化は中国人の民族性の悪い面の一つで、中国人はこの悪い面を反省して変えなければならないと思っている。偉い人や国家のために都合の悪いことを隠したり、事実を誇張したり、デマをまき散らす伝統をなくさなければならない。当の中国人でさえ、虚言は現代社会と両立しないということに気がついている。だからこの2、3年、中国で“誠信(誠実と信用)”ということがしきりに言われるのである。だが、“誠信”であろうとすれば、まず第一に虚言で国家の対面を保とうとする避諱観念を抛擲しなければならない。いかなる情況においても本当のことを話す人が真の“誠信”の人である。
今日のさまざまな現象を見ると、中国人の思想や思考様式は次第に避諱から離れる方向へ発展し、“誠信”へと近付きつつあると思える。
これは メッセージ 2777 (gkgsr528 さん)への返信です.
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