于山はチクトか
投稿者: tuutuu32 投稿日時: 2005/06/04 00:26 投稿番号: [9752 / 18519]
この場合の于山は、チクトでも独島でもないと思います。
八道総図は、16世紀の成立と聞いていますが、世宗実録の記述は、100年後の八道総図のような地理認識を著したものではないでしょうか。世宗実録の時代に八道総図のような地図があったかどうか不明ですが、もしなかったとしても、何らかのイメージをもって記述するはずですから。そのイメージが八道総図のようなものではなかったのでしょうか。妄想ですかね?
八道総図を言葉に直すとどうなるでしょうか。八道総図に描かれた于山島と鬱陵島の距離は、朝鮮半島から于山島までの距離より断然近いから、両島は遠くないと記述するのは妥当です。また、両島が互いに見えるとの解釈も、この意味では一概に間違いとは言えません。于山島が朝鮮半島から見えるのですから、それより短いイメージの両島間の距離であれば、当然互いに見えることになるからです(少々難ありですが)。
私は、「県の正東の海中にあり」と「二島の距離は遠くない」の間に長文がはさまっていれば、互いに見ることができるに軍配を上げるのですが、その解釈をするには、あまりに文が近いこと、遠い近いの感覚や規式からも、朝鮮半島から見えると解釈する方が正解だと思います。
でも、八道総図のイメージで記述したという推測が妥当なら、どちらかの解釈に軍配を上げる必要がないのかも知れません。
次に、私の妄想?の場合、両島が重なって見えるのかどうかは、関係がなくなってしまいます。というのは、実際に島を見たことがない人は、平面的にしかイメージできず、その上、現実とは違うイメージのままで記述しているのですから、于山島と鬱陵島が重なって見えるかどうかは、頭に浮かばず、記述するはずもありません。ですから、私は、実際に島が重なるかどうかを論ずる必要性はないのではないかと思っています。
「于山島と鬱陵島が近くにある。そして、朝鮮半島から島は見える。」という記述は、八道総図のような地理イメージを正確に伝えるうえでは、合理的で必要かつ十分な記述です。
以上のことから、世宗実録にいう于山島は、チクトでも独島でもなく、単に、鬱陵島二島イメージを表現しただけだと考えています。
八道総図は、16世紀の成立と聞いていますが、世宗実録の記述は、100年後の八道総図のような地理認識を著したものではないでしょうか。世宗実録の時代に八道総図のような地図があったかどうか不明ですが、もしなかったとしても、何らかのイメージをもって記述するはずですから。そのイメージが八道総図のようなものではなかったのでしょうか。妄想ですかね?
八道総図を言葉に直すとどうなるでしょうか。八道総図に描かれた于山島と鬱陵島の距離は、朝鮮半島から于山島までの距離より断然近いから、両島は遠くないと記述するのは妥当です。また、両島が互いに見えるとの解釈も、この意味では一概に間違いとは言えません。于山島が朝鮮半島から見えるのですから、それより短いイメージの両島間の距離であれば、当然互いに見えることになるからです(少々難ありですが)。
私は、「県の正東の海中にあり」と「二島の距離は遠くない」の間に長文がはさまっていれば、互いに見ることができるに軍配を上げるのですが、その解釈をするには、あまりに文が近いこと、遠い近いの感覚や規式からも、朝鮮半島から見えると解釈する方が正解だと思います。
でも、八道総図のイメージで記述したという推測が妥当なら、どちらかの解釈に軍配を上げる必要がないのかも知れません。
次に、私の妄想?の場合、両島が重なって見えるのかどうかは、関係がなくなってしまいます。というのは、実際に島を見たことがない人は、平面的にしかイメージできず、その上、現実とは違うイメージのままで記述しているのですから、于山島と鬱陵島が重なって見えるかどうかは、頭に浮かばず、記述するはずもありません。ですから、私は、実際に島が重なるかどうかを論ずる必要性はないのではないかと思っています。
「于山島と鬱陵島が近くにある。そして、朝鮮半島から島は見える。」という記述は、八道総図のような地理イメージを正確に伝えるうえでは、合理的で必要かつ十分な記述です。
以上のことから、世宗実録にいう于山島は、チクトでも独島でもなく、単に、鬱陵島二島イメージを表現しただけだと考えています。
これは メッセージ 9749 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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