『東国文献備考』「輿地考」(1770) 2号
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/06/02 13:29 投稿番号: [9736 / 18519]
http://toron.pepper.jp/jp/take/tizu/kaizan.html
承政院日記』の英祖四十六年(1770年)閏五月二日条には、
『東国文献備考』の上箋文を書いた金致仁は、その編纂過程をについて、
「(申)景濬草創して、(洪)啓禧
潤色す」と述べている。
「輿地考」は申景濬の『彊界考』を底本としているが、その編纂の過程では洪啓禧という人物の手が加わり、文章に潤色がなされたと言っているのである。
つまり、柳馨遠の『輿地考』の「一説に于山鬱陵本一島」という文章は、
まず、申景濬の『彊界考』の按記で、于山島と鬱陵島が別々の島であることを主張するための材料として引用された。
さらに、「輿地考」の分註で、洪啓禧の手が加わって、「輿地志に云う、鬱陵、于山、皆于山国の地。于山は則ち倭の所謂松島なり」という形に改竄されていたのである。
結局、于山島が松島(=現在の竹島(独島))だったということも、于山島が鬱陵島の属島であったと言う事も、柳馨遠の「輿地志」に書かれていたのではなく、申景濬から始まっていたのである。
では、申景濬は何に依拠して、「于山島は松島である」と臆断したのか?
申景濬は按記の中で「諸図志を考えるに」としているように、当時存在していた文献を勘案しているが、それらは安龍福の「松島即ち于山島」という証言を無批判に取り入れていたわけである。
これは メッセージ 9735 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/cddeg_1/9736.html