竹島

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私の結論

投稿者: husenoyaji 投稿日時: 2005/04/26 15:04 投稿番号: [9060 / 18519]
三峯島関係についての、私の結論です。

1.世宗実録から東國輿地勝覧までの間の資料には、公式な獨島認識が
   存在したとする証拠能力はない。むしろ否定的な証拠である。

2.民間においては獨島認識があやふやな形で存在した可能性を
   示唆する資料ではある。

まず、一連の資料の中で出発点とするべきは、東國輿地勝覧です。
なぜなら、世宗実録と時間的に近い上に、一連の三峯島探索の後に
成立しているからです。

その中で、風日清明であれば樹木や渚が歴々可見であるのは、
半島と鬱陵島でもなく、鬱陵島と獨島でもなく、鬱陵島と属島
にほかなりません。すくなくとも于山島をしるした地図はそのように
書いている以上、素直に読めば順当なことはまちがいありません。

ですから、于山島を獨島に比定することは、東國輿地勝覧からすると
全く無理であり、于山島を倭の松島とした後世の記述から類推した
誤った解釈です。

さて、問題は三峯島です。
東國輿地勝覧を見ると、于山島と鬱陵島に関してどちらかはわかりませんが、
三峯がそびえていることが書いてあり、いかにも三峯島と同一であるかの
ように思えます。ところが、三峯島とも言うとは書いておらず。
最後に「成宗二年有告別有三峯島」と書いた上で、第一回目の探索の記録を
載せています。
さらに、第一回目の探索でも、三峯島敬差官と称して、鬱陵島とは別に
使い分けています。

したがって、形状から鬱陵島を三峯島と呼んでいた者が居た可能性は
十分あるにしても、探索の目的は、鬱陵島とも于山島とも別の島で
あるとするのが妥当です。

そして、成宗七年の形状記録した三峯島探索で、獨島に到達した可能性
ですが、公式な結論としては、鬱陵島か于山島に比定しています。
東國輿地勝覧に記述がないことが最大の理由です。
別島探索について記述しながらも、形状記録を見て別島だとしたなら
書かないわけがありません。
形状が獨島に似ていようがいまいが、公式には歴々可見の二島認識だけなのです。
当時の人は図も見ているでしょうから、なおさら確実です。

さらに、アヒル氏のテキストによると、成宗12年に金漢京は処刑されます。
(不戦親父訳
往来する者   見たという者も見えないとういう者もおり、真偽のほどが定かで
なかったので、人をやって探したが無かった。そこで金漢京を衆を惑わした
罪で極刑にした。

「以示衆目則愚民亦知三峯島之必無」

つまり、処刑を衆目に示し、愚民に三峯島というものが絶対ないのだという
ことを知らしめたのです。
別名だとしたのではないのです。
そして、このことは、公式には獨島認識を否定したものですが、逆に民間には
曖昧な形で獨島認識が存在したと類推する根拠にもなります。
愚民に示す必要があったということは、鬱陵島于山島以外の島の噂が存在
したからだと考えるのは、断定はできませんが、十分妥当な範囲です。

金漢京については、鬱陵島に行った供述がない、三峯島は半島から
見えると供述している、七年の探索では人が居た、三峯島の住民と接した
ことがある、鬱陵島によらずいきなり三峯島にゆくことは不自然、
などから、金漢京自身ははじめから鬱陵島のことを三峯島だと言っていた
可能性が高いのです。

次に世宗実録ですが、
二島相去不遠 風日清明 則可望見

すでに書きましたが、相の字だけでお互いにと断定することはできません。
しかし、東國輿地勝覧の記述などからして、妥当性は十分あります。
次に可望見ですが、これは半島からです。
二島関係だけで、半島からの距離を書かない理由がなく。
半島からの距離も書くのがフォーマットであること。
書くのは地方の役人であるので、主語も半島からであること。
すくなくとも、これを二島の関係ととらえるべき積極的理由がなく、
ここに獨島認識を入れるための証拠能力はありません。
二島は不遠の主語には成り得ますが、見るの主語にはなりえません。
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