隠州視聴合紀の「国代記」2/3
投稿者: okinotorisima2004 投稿日時: 2005/04/19 17:34 投稿番号: [8723 / 18519]
隠州視聴合紀の「此の州」とは鬱陵島である
日本は、
? 然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す。
と記されている事から、「此州」とは鬱陵島の事と解釈し、それより東にある竹島(独島)は当然、日本領であると解釈した。
齋藤豊仙は、?以下の記事で、隠岐島を起点として、隠岐島からの方位とその周辺の地域との地理的関係を示しているのである。
そして、?〜?での説明
? 戌亥(北西)の間、行2日1夜行けば、松島(現在の竹島)がある。
? また一日ほどの程で竹島(現在の鬱陵島)がある。
? これは俗に言う磯竹島のことである。
竹や魚・海驢(あしか)が多い。按ずるに、神書の所謂五十猛歟。
? この2島、無人の地である。高麗(朝鮮)を見ること雲州より隠州を望むがごとし。
この高麗を望んだ地点とは、何処か?
と言うことだが、これは、雲州(島根県)から、隠岐島を見るように、
高麗が見える地点と言うことだから、竹島、鬱陵島、隠岐島の何れか?
それは、日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである。
そのように高麗が見える地点とは、鬱陵島と言うことになる
ここでは、隠岐島から見て、北西の間にある松島(現在の竹島(独島))と、さらに鬱陵島がある
そこからは、雲州から隠州を見るように、高麗(朝鮮)が見える
と地理的特性を説明している
そして、?へと繋がる。
? 然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す。
冒頭の「然からば」について、説明する必要があるようだ。
「然からば」の役割は、雲州(出雲)より隠州(隠岐)を望むように、
「竹嶋(=鬱陵島)」から高麗(朝鮮)が望める事を強調するためにある。
そして、日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである。
「此の州」とは明白である。
隠岐島を基点に乾(北西)の方角にあって、最も朝鮮に近い州(島)と言えば、
「国代記」の中では竹嶋(=鬱陵島)だけである。
「此の州」の「州」の使い方については、韓国は異論を言う。
金柄烈教授の「独島か竹島か」では、「州」が島の意味で使われる事があるが、その場合は「群島」や「行政体制を持つ村がある場合」にだけ該当する。鬱陵島一島の場合は「州」とは言わない。
しかし、隠岐島を一島でも隠州とするように、州には島の意味がある。
よって、「此の州」を鬱陵島のこととして、問題はない。
また、鬱陵島一島だけの帰属が問題になった当時の記録をまとめた『星湖塞説』でも、「安龍福の功労で鬱陵島が朝鮮の領土に覆した」ことを「一州の土を覆す」と記していることからも「州」の使い方に問題がないと言える
「限りと為す」、、、を、隠岐島を北西の限りと解釈する説もあるが、
それでは齋藤豊仙が隠岐島を基点とした意味が無くなる
?において齋藤豊仙は、鬱陵島が磯竹島と言われている理由は、日本書紀の五十猛歟(五十猛神)に由来すると、考えている。
この事からも、斉藤豊仙は、鬱陵島を日本領と考えていた。
(逆に、鬱陵島を朝鮮領と考えていたとすれば、日本神話に思いを巡らすことはない)
以上の事から、隠岐島から北西の位置に竹島(鬱陵島)は、日本の最北西にある領土と認識していたと解る。
また、『隠州視聴合紀』が書かれた当時の出雲藩では、以下の事柄からも竹嶋(鬱陵島)を日本領として認識していた。
隠岐島は1638年以来、一時期を除き、出雲藩の預かり領だった。
それ故に、隠岐島の西郷には出雲藩から派遣された郡代が詰めていた。
よって、1696年に江戸幕府が鬱陵島への渡海を禁じるまでの間、
鳥取藩から「往来手形」の発給を受けた米子の大谷、村川両家は、
鬱陵島へ渡る際には、隠岐島の西郷にある出雲藩の番所に立ち寄っていた。
当然、郡代となった出雲藩士・齋藤豊仙も、大谷・村川の両家が鬱陵島に出漁していた事実を知っていた。
『隠州視聴合紀』の別の記事「知夫郡焼火山縁起」にも、
「伯耆の国の大賀邑河氏、官より朱印を賜り大船を磯竹島(鬱陵島)に致す」として、鬱陵島への渡海に言及している。
齋藤豊仙が鬱陵島を日本領として『隠州視聴合紀』に書くのは当然の事である。
日本は、
? 然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す。
と記されている事から、「此州」とは鬱陵島の事と解釈し、それより東にある竹島(独島)は当然、日本領であると解釈した。
齋藤豊仙は、?以下の記事で、隠岐島を起点として、隠岐島からの方位とその周辺の地域との地理的関係を示しているのである。
そして、?〜?での説明
? 戌亥(北西)の間、行2日1夜行けば、松島(現在の竹島)がある。
? また一日ほどの程で竹島(現在の鬱陵島)がある。
? これは俗に言う磯竹島のことである。
竹や魚・海驢(あしか)が多い。按ずるに、神書の所謂五十猛歟。
? この2島、無人の地である。高麗(朝鮮)を見ること雲州より隠州を望むがごとし。
この高麗を望んだ地点とは、何処か?
と言うことだが、これは、雲州(島根県)から、隠岐島を見るように、
高麗が見える地点と言うことだから、竹島、鬱陵島、隠岐島の何れか?
それは、日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである。
そのように高麗が見える地点とは、鬱陵島と言うことになる
ここでは、隠岐島から見て、北西の間にある松島(現在の竹島(独島))と、さらに鬱陵島がある
そこからは、雲州から隠州を見るように、高麗(朝鮮)が見える
と地理的特性を説明している
そして、?へと繋がる。
? 然からば即ち、日本の乾(北西)の地、此の州を以て限りと為す。
冒頭の「然からば」について、説明する必要があるようだ。
「然からば」の役割は、雲州(出雲)より隠州(隠岐)を望むように、
「竹嶋(=鬱陵島)」から高麗(朝鮮)が望める事を強調するためにある。
そして、日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである。
「此の州」とは明白である。
隠岐島を基点に乾(北西)の方角にあって、最も朝鮮に近い州(島)と言えば、
「国代記」の中では竹嶋(=鬱陵島)だけである。
「此の州」の「州」の使い方については、韓国は異論を言う。
金柄烈教授の「独島か竹島か」では、「州」が島の意味で使われる事があるが、その場合は「群島」や「行政体制を持つ村がある場合」にだけ該当する。鬱陵島一島の場合は「州」とは言わない。
しかし、隠岐島を一島でも隠州とするように、州には島の意味がある。
よって、「此の州」を鬱陵島のこととして、問題はない。
また、鬱陵島一島だけの帰属が問題になった当時の記録をまとめた『星湖塞説』でも、「安龍福の功労で鬱陵島が朝鮮の領土に覆した」ことを「一州の土を覆す」と記していることからも「州」の使い方に問題がないと言える
「限りと為す」、、、を、隠岐島を北西の限りと解釈する説もあるが、
それでは齋藤豊仙が隠岐島を基点とした意味が無くなる
?において齋藤豊仙は、鬱陵島が磯竹島と言われている理由は、日本書紀の五十猛歟(五十猛神)に由来すると、考えている。
この事からも、斉藤豊仙は、鬱陵島を日本領と考えていた。
(逆に、鬱陵島を朝鮮領と考えていたとすれば、日本神話に思いを巡らすことはない)
以上の事から、隠岐島から北西の位置に竹島(鬱陵島)は、日本の最北西にある領土と認識していたと解る。
また、『隠州視聴合紀』が書かれた当時の出雲藩では、以下の事柄からも竹嶋(鬱陵島)を日本領として認識していた。
隠岐島は1638年以来、一時期を除き、出雲藩の預かり領だった。
それ故に、隠岐島の西郷には出雲藩から派遣された郡代が詰めていた。
よって、1696年に江戸幕府が鬱陵島への渡海を禁じるまでの間、
鳥取藩から「往来手形」の発給を受けた米子の大谷、村川両家は、
鬱陵島へ渡る際には、隠岐島の西郷にある出雲藩の番所に立ち寄っていた。
当然、郡代となった出雲藩士・齋藤豊仙も、大谷・村川の両家が鬱陵島に出漁していた事実を知っていた。
『隠州視聴合紀』の別の記事「知夫郡焼火山縁起」にも、
「伯耆の国の大賀邑河氏、官より朱印を賜り大船を磯竹島(鬱陵島)に致す」として、鬱陵島への渡海に言及している。
齋藤豊仙が鬱陵島を日本領として『隠州視聴合紀』に書くのは当然の事である。
これは メッセージ 8717 (okinotorisima2004 さん)への返信です.
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