唐辛子をブチ撒けてやるニダ!
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/02/28 17:56 投稿番号: [6665 / 18519]
目潰し作戦ニダ!(笑)
>蠔(ぺ)某氏が親日勢力をバックに島主として横暴を働き始めると、これに反動する韓民族勢力が島にやってきて
親日も何も、ただ横暴だけだったんじゃないの?(笑)
>このクーデターに参加した巨文島・西島居住のパク・ヨンハク老人に聞くところによると、45年前は唐辛子一握りを持って島主宅を襲撃し、目が開けられないようになるまでその唐辛子をばら撒き、身体を縛って水葬にし、妻子を韓半島本土に送還したという。
まず、「クーデター」って、政権転覆を狙ったものだろ? これ、ただの代官追い出しキャンペーンじゃん?
それに「水葬」って、生きたままドザエモンにしてやったってことじゃんか。そりゃ「溺死させる」と言うわな。
あとの部分は、もういい。(笑)
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唐辛子の独島デモ
「独島は日本領土」という駐韓日本大使の発言に抗議するデモで、トウガラシを撒き散らす光景が(韓国で)報道された。韓国初の唐辛子デモが朝鮮時代末期の鬱陵島で親日勢力に対する反動から始まったのと偶然一致し、余韻を残している。
1900年前後に空島政策を採用してきた鬱陵島は島主制で住民の力が強く作用した。韓国の国運が傾きながら日本の勢力が権勢を振るうようになり、蠔(ぺ)某氏が親日勢力をバックに島主として横暴を働き始めると、これに反動する韓民族勢力が島にやってきて、ワカメを奪い、船を作ってやって来た巨文(コムン)島の漁師たちも一緒になって島主の家を襲撃した。
このクーデターに参加した巨文島・西島居住のパク・ヨンハク老人に聞くところによると、45年前は唐辛子一握りを持って島主宅を襲撃し、目が開けられないようになるまでその唐辛子をばら撒き、身体を縛って水葬にし、妻子を韓半島本土に送還したという。
その後、蠔氏の息子が出世し日本の巡警になり、父の仇を討つため鬱陵島に来た際にクーデターに参加したという漁師は全員亡くなっており、蠔氏が水葬された地点の岩陰に座り、数日間泣いて帰って行ったというのが島の言い伝えになっている。
この唐辛子クーデターが物語るように島主を生かしておかなかった鬱陵島はこのように巨文島や日本の漁師たちが木材、ワカメ、余りものと呼ばれていたオットセイを捕りに来て、この島で勢力争いを繰り返して来たことがうかがい知れる。
先のパク老人によると、鬱陵島ではオットセイが家の中や台所まで入ってきたといい、独島に行けば数千頭のオットセイが島を埋め尽くしていたという。
このオットセイで毎年利益を上げていた日本の現島根県地域の中井養三郎という漁師は1904年の1年間だけで2700頭も狩猟した。独島が鬱陵島に所属した韓国領土であることを知りながらも、日本領土に10海里近い無人島という名分で日本の関係大臣に領土編入願と賃貸を請願している。
独島に対する現地調査や歴史地理的調査もなく、請願を内閣で議決、通告した日が韓国侵略を露骨化した乙巳(ウルサ)条約(第2次韓日協約)が結ばれた1905年2月15日で、まさにこの日を独島の日本名「竹島の日」と定めたのが駐韓日本大使の発言の導火線となり、その100年の忘却の間隙を唐辛子デモが思い出させている。
李圭泰(イ・ギュテ) kyoutaelee@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/02/27/20050227000028.html
>蠔(ぺ)某氏が親日勢力をバックに島主として横暴を働き始めると、これに反動する韓民族勢力が島にやってきて
親日も何も、ただ横暴だけだったんじゃないの?(笑)
>このクーデターに参加した巨文島・西島居住のパク・ヨンハク老人に聞くところによると、45年前は唐辛子一握りを持って島主宅を襲撃し、目が開けられないようになるまでその唐辛子をばら撒き、身体を縛って水葬にし、妻子を韓半島本土に送還したという。
まず、「クーデター」って、政権転覆を狙ったものだろ? これ、ただの代官追い出しキャンペーンじゃん?
それに「水葬」って、生きたままドザエモンにしてやったってことじゃんか。そりゃ「溺死させる」と言うわな。
あとの部分は、もういい。(笑)
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唐辛子の独島デモ
「独島は日本領土」という駐韓日本大使の発言に抗議するデモで、トウガラシを撒き散らす光景が(韓国で)報道された。韓国初の唐辛子デモが朝鮮時代末期の鬱陵島で親日勢力に対する反動から始まったのと偶然一致し、余韻を残している。
1900年前後に空島政策を採用してきた鬱陵島は島主制で住民の力が強く作用した。韓国の国運が傾きながら日本の勢力が権勢を振るうようになり、蠔(ぺ)某氏が親日勢力をバックに島主として横暴を働き始めると、これに反動する韓民族勢力が島にやってきて、ワカメを奪い、船を作ってやって来た巨文(コムン)島の漁師たちも一緒になって島主の家を襲撃した。
このクーデターに参加した巨文島・西島居住のパク・ヨンハク老人に聞くところによると、45年前は唐辛子一握りを持って島主宅を襲撃し、目が開けられないようになるまでその唐辛子をばら撒き、身体を縛って水葬にし、妻子を韓半島本土に送還したという。
その後、蠔氏の息子が出世し日本の巡警になり、父の仇を討つため鬱陵島に来た際にクーデターに参加したという漁師は全員亡くなっており、蠔氏が水葬された地点の岩陰に座り、数日間泣いて帰って行ったというのが島の言い伝えになっている。
この唐辛子クーデターが物語るように島主を生かしておかなかった鬱陵島はこのように巨文島や日本の漁師たちが木材、ワカメ、余りものと呼ばれていたオットセイを捕りに来て、この島で勢力争いを繰り返して来たことがうかがい知れる。
先のパク老人によると、鬱陵島ではオットセイが家の中や台所まで入ってきたといい、独島に行けば数千頭のオットセイが島を埋め尽くしていたという。
このオットセイで毎年利益を上げていた日本の現島根県地域の中井養三郎という漁師は1904年の1年間だけで2700頭も狩猟した。独島が鬱陵島に所属した韓国領土であることを知りながらも、日本領土に10海里近い無人島という名分で日本の関係大臣に領土編入願と賃貸を請願している。
独島に対する現地調査や歴史地理的調査もなく、請願を内閣で議決、通告した日が韓国侵略を露骨化した乙巳(ウルサ)条約(第2次韓日協約)が結ばれた1905年2月15日で、まさにこの日を独島の日本名「竹島の日」と定めたのが駐韓日本大使の発言の導火線となり、その100年の忘却の間隙を唐辛子デモが思い出させている。
李圭泰(イ・ギュテ) kyoutaelee@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/02/27/20050227000028.html
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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