「竹島一件」後の松島(竹島=独島)
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/10/17 22:03 投稿番号: [5733 / 18519]
半月城です。外務省に対する批判をつづけることにします。
RE:5726, Am_I_AHO_1stさん
>そして「竹島一件」が決着し、竹島が放棄されると必然的に松島も放棄され、それ以降大谷・村川が松島を「経営」することはありませんでした。
それは当時の日本に於ける一般的な認識である「竹嶋之内松嶋」からは必然的な結論に思われます。
そのとおりです。「竹島一件」以後は官民ともに松島(竹島=独島)は竹島(鬱陵島)と一体であるという認識が不動のものになりました。それを広範なレベルで確実なものにしたのが、外務省推薦の史料「改正日本輿地(ヨチ)路程全図」です(注1)。
外務省はホームページ「竹島問題」で竹島=独島を「日本の固有領土」とする根拠らしき古文献として、唯一、具体的に提示したのがこの地図ですが、それすらヤブヘビになっているようです。
この地図は「官許」すなわち江戸幕府公認であり、しかも出来が良かったので「竹島一件」以後の江戸時代を代表する地図になりました(注2)。その復刻版をみると松島、竹島の諸島近辺の海は薄緑色に着色され、あたかも両島が「竹島列島」ないしは「竹島群島」であるかのように描かれました(注3)。
さらに念の入ったことに、松島と竹島の間を文字で直接つなぐかのように『隠州視聴合記』に記述された「見高麗猶雲州望隠州」「竹島 一云磯竹島」「松島」という文字を左45度の角度にそろえて記載しました。これほど完璧に両島の一体感を表現した地図はまずないでしょう。
この地図などのおかげで、幕府が竹島(鬱陵島)を放棄したことは、とりもなおさずそれと一体と考えられていた松島(竹島=独島)をも放棄したと受止められたようです。外務省ご自慢の史料は、ここでも韓国に有利に働くようです。
そうした松島同時放棄の認識は、その後の日本政府の官撰図にみることができます。まず、幕府秘蔵の官撰図である伊能忠敬の日本地図に両島は記載されませんでした。さらに重要なことは、幕府が唯一出版した官撰図『官板実測日本地圖』にも竹島=独島は記載されませんでした(注6)。
竹島=独島を日本の版図外とする認識は明治政府にも引き継がれ、政府内の地図作成機関により再確認されました(注4)。その結果、太政大臣は松島(竹島=独島)を「本邦関係無」とする指令まで発するにいたりました(注5)。そのため、明治時代の官撰図である『大日本管轄分地図』にももちろん竹島=独島は記載されませんでした(注6)。
このように日本は歴史的に1905年まで一貫して竹島=独島に領有意識をもっていなかったことになります。
なお、外務省が特筆大書する長久保赤水の「日本輿地路程全図」ですが、最近の研究者はこれにソッポを向いているようです。塚本孝は「竹島領有権問題の経緯(第2版)」でこの地図にまったくふれませんでした。外務省の期待をよそに、同図は領有権問題にはほとんど影響ないという判断をしているようです。
同様に、大西俊輝氏の『日本海と竹島』、内藤正中氏の『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』などもふれていないようです。さらには、竹島=独島を日本領とするには我田引水的解釈も辞さないとみられる下條正男氏ですら、これにはまったくふれていないようです。やはり「日本輿地路程全図」は日本にとって不利な材料と判断したのでしょうか。
(注1)外務省ホームページ「竹島問題」
<日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた。このことは多くの文献、地図等により明白である。
(注:経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地(ヨチ)路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している。その他にも明治に至るまで多数の資料あり>
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html
(注2)<長久保赤水の地図>
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm089.html#No.630
(注3)長久保赤水「新刻 日本輿地路程全図」『江戸時代 日本全圖歴覧』日本地圖選集刊行委員会編、人文社、1990
(注4)<明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識>
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm095.html#No.693
(注5)<太政大臣の竹島=独島放棄>
http://www.han.org/a/half-moon/hm084.html#No.580
(注6)<江戸、明治時代の官撰図>
http://www2s.b
RE:5726, Am_I_AHO_1stさん
>そして「竹島一件」が決着し、竹島が放棄されると必然的に松島も放棄され、それ以降大谷・村川が松島を「経営」することはありませんでした。
それは当時の日本に於ける一般的な認識である「竹嶋之内松嶋」からは必然的な結論に思われます。
そのとおりです。「竹島一件」以後は官民ともに松島(竹島=独島)は竹島(鬱陵島)と一体であるという認識が不動のものになりました。それを広範なレベルで確実なものにしたのが、外務省推薦の史料「改正日本輿地(ヨチ)路程全図」です(注1)。
外務省はホームページ「竹島問題」で竹島=独島を「日本の固有領土」とする根拠らしき古文献として、唯一、具体的に提示したのがこの地図ですが、それすらヤブヘビになっているようです。
この地図は「官許」すなわち江戸幕府公認であり、しかも出来が良かったので「竹島一件」以後の江戸時代を代表する地図になりました(注2)。その復刻版をみると松島、竹島の諸島近辺の海は薄緑色に着色され、あたかも両島が「竹島列島」ないしは「竹島群島」であるかのように描かれました(注3)。
さらに念の入ったことに、松島と竹島の間を文字で直接つなぐかのように『隠州視聴合記』に記述された「見高麗猶雲州望隠州」「竹島 一云磯竹島」「松島」という文字を左45度の角度にそろえて記載しました。これほど完璧に両島の一体感を表現した地図はまずないでしょう。
この地図などのおかげで、幕府が竹島(鬱陵島)を放棄したことは、とりもなおさずそれと一体と考えられていた松島(竹島=独島)をも放棄したと受止められたようです。外務省ご自慢の史料は、ここでも韓国に有利に働くようです。
そうした松島同時放棄の認識は、その後の日本政府の官撰図にみることができます。まず、幕府秘蔵の官撰図である伊能忠敬の日本地図に両島は記載されませんでした。さらに重要なことは、幕府が唯一出版した官撰図『官板実測日本地圖』にも竹島=独島は記載されませんでした(注6)。
竹島=独島を日本の版図外とする認識は明治政府にも引き継がれ、政府内の地図作成機関により再確認されました(注4)。その結果、太政大臣は松島(竹島=独島)を「本邦関係無」とする指令まで発するにいたりました(注5)。そのため、明治時代の官撰図である『大日本管轄分地図』にももちろん竹島=独島は記載されませんでした(注6)。
このように日本は歴史的に1905年まで一貫して竹島=独島に領有意識をもっていなかったことになります。
なお、外務省が特筆大書する長久保赤水の「日本輿地路程全図」ですが、最近の研究者はこれにソッポを向いているようです。塚本孝は「竹島領有権問題の経緯(第2版)」でこの地図にまったくふれませんでした。外務省の期待をよそに、同図は領有権問題にはほとんど影響ないという判断をしているようです。
同様に、大西俊輝氏の『日本海と竹島』、内藤正中氏の『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』などもふれていないようです。さらには、竹島=独島を日本領とするには我田引水的解釈も辞さないとみられる下條正男氏ですら、これにはまったくふれていないようです。やはり「日本輿地路程全図」は日本にとって不利な材料と判断したのでしょうか。
(注1)外務省ホームページ「竹島問題」
<日本は古くより竹島(当時の「松島」)を認知していた。このことは多くの文献、地図等により明白である。
(注:経緯線投影の刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地(ヨチ)路程全図」(1779年)では現在の竹島を位置関係を正しく記載している。その他にも明治に至るまで多数の資料あり>
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.html
(注2)<長久保赤水の地図>
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm089.html#No.630
(注3)長久保赤水「新刻 日本輿地路程全図」『江戸時代 日本全圖歴覧』日本地圖選集刊行委員会編、人文社、1990
(注4)<明治政府の地図作成機関の竹島=独島認識>
http://www2s.biglobe.ne.jp/~halfmoon/hm095.html#No.693
(注5)<太政大臣の竹島=独島放棄>
http://www.han.org/a/half-moon/hm084.html#No.580
(注6)<江戸、明治時代の官撰図>
http://www2s.b
これは メッセージ 5726 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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