朴正煕 は
投稿者: osavaki 投稿日時: 2004/06/26 19:23 投稿番号: [5158 / 18519]
KOREANの本質を良く見抜いていたね。
http://www2.odn.ne.jp/~ccq47810/boku.html
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わが五千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の歴史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢で以って民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかったし、せいぜい同胞相争のため安らかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図にすぎなかった。
第一にわれわれの歴史は始めから終わりまで他人に押され、それに寄りかかって生きてきた歴史である。大韓帝国が終幕を告げるまで、この国の歴史は平安な日がなく外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに、 かろうじて生活とはいえない生存を延長してきた。
ところが、嘆かわしいことは、このながい受難の歴程のなかでただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示した事がないということである。
そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、われわれの力不足のため起こったのではなく、ほとんどがわれわれが招き入れたようなものとなっている。
また、外圧に対してわれわれが一致して抵抗したことがなかったわけではないが、多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられるのであった。
自らを弱者とみなし、他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自首や発展は期待することはできないであろう。
第二に、われわれの党争にかんすることである。
これは世界でもまれなほど小児病的で醜いものである。
第三に、われわれは自主、主体意識が不足していた。
われわれの波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった 文化、政治、社会はついに「我々のもの」を失い、代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。
われわれが眠っている間に世界各国はいち早く自国の経済向上のため 目覚しい活動を展開していた。しかし、われわれは海外進出は念頭におかず、せいぜい座ってワラを編んでいただけではなかったか。
高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。
それもかろうじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。
しかし、これも途中から命脈が切れてしまったのだから嘆かわしいことである。
以上のように、わが民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろん ある一時代には世宗大王、李忠武公のような万古の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に願みるとただあ然とするだけで真っ暗になるばかりである。われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史はむしろ燃やしてしかるべきである。
「朴正煕 選集 2国家・民族・私」−我々は今何をいかになすべきか− より抜粋
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【中曽根康弘と福田和也との対談】
韓国の朴正煕大統領がこんな話をしてくれました。
彼の周囲にいるかつて軍人だったような威勢のいい連中は、 酒に酔ってくると「日本はけしからん」と言いだす。
それに対して朴大統領は「まあ、待て」となだめながら自らの歩みを語る。
朴大統領は貧農の出身で、教育を受けたいと思いながら、 とても無理だろうとあきらめていた。
ところが日本がその統治下で義務教育制を敷いたことで、 朴少年も学校に通うことができた。
また満州軍官学校を首席で卒業した彼は、その特典で日本の陸軍士官学校に留学し、卒業します。
日本は朴少年のような存在にそうした機会を与えた。
「日本人は名前を変えろとか生意気なこともやったけれど、 私はおおむね彼らは公平にやったと思う」
と朴大統領は述懐していたわけです。
http://www2.odn.ne.jp/~ccq47810/boku.html
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わが五千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の歴史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢で以って民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかったし、せいぜい同胞相争のため安らかな日がなかっただけで、姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図にすぎなかった。
第一にわれわれの歴史は始めから終わりまで他人に押され、それに寄りかかって生きてきた歴史である。大韓帝国が終幕を告げるまで、この国の歴史は平安な日がなく外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに、 かろうじて生活とはいえない生存を延長してきた。
ところが、嘆かわしいことは、このながい受難の歴程のなかでただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示した事がないということである。
そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、われわれの力不足のため起こったのではなく、ほとんどがわれわれが招き入れたようなものとなっている。
また、外圧に対してわれわれが一致して抵抗したことがなかったわけではないが、多くの場合、敵と内通したり浮動したりする連中が見受けられるのであった。
自らを弱者とみなし、他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自首や発展は期待することはできないであろう。
第二に、われわれの党争にかんすることである。
これは世界でもまれなほど小児病的で醜いものである。
第三に、われわれは自主、主体意識が不足していた。
われわれの波乱多き歴史の陰になって固定されることのなかった 文化、政治、社会はついに「我々のもの」を失い、代わりに「よそもの」を仰ぎ見るようになり、それに迎合する民族性に陥らせてしまった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
第四に、経済の向上に少しも創意的な意欲がなかったということである。
われわれが眠っている間に世界各国はいち早く自国の経済向上のため 目覚しい活動を展開していた。しかし、われわれは海外進出は念頭におかず、せいぜい座ってワラを編んでいただけではなかったか。
高麗磁器などがやっと民族文化として残っているのみである。
それもかろうじて貴族の趣味にとどまっているだけであった。
しかし、これも途中から命脈が切れてしまったのだから嘆かわしいことである。
以上のように、わが民族史を考察してみると情けないというほかない。もちろん ある一時代には世宗大王、李忠武公のような万古の聖君、聖雄もいたけれども、全体的に願みるとただあ然とするだけで真っ暗になるばかりである。われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあってもこの歴史を全体的に改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史はむしろ燃やしてしかるべきである。
「朴正煕 選集 2国家・民族・私」−我々は今何をいかになすべきか− より抜粋
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【中曽根康弘と福田和也との対談】
韓国の朴正煕大統領がこんな話をしてくれました。
彼の周囲にいるかつて軍人だったような威勢のいい連中は、 酒に酔ってくると「日本はけしからん」と言いだす。
それに対して朴大統領は「まあ、待て」となだめながら自らの歩みを語る。
朴大統領は貧農の出身で、教育を受けたいと思いながら、 とても無理だろうとあきらめていた。
ところが日本がその統治下で義務教育制を敷いたことで、 朴少年も学校に通うことができた。
また満州軍官学校を首席で卒業した彼は、その特典で日本の陸軍士官学校に留学し、卒業します。
日本は朴少年のような存在にそうした機会を与えた。
「日本人は名前を変えろとか生意気なこともやったけれど、 私はおおむね彼らは公平にやったと思う」
と朴大統領は述懐していたわけです。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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