>独島問答Q47
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2004/01/13 21:04 投稿番号: [2939 / 18519]
半月城通信にて李奎遠に関する部分を読ませていただきました。何もミクロやマクロにわざわざ分ける必要はなく、高宗は三島を認識していたし、李奎遠は二島を認識していたという程度でよろしいのではないでしょうか。李奎遠はこう言っています。
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王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」
李奎遠曰く「謹んで精一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」
王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」
李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」(半月城通信:1547)
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松竹島のほかに松島・竹島があるわけではないというのは、つまり鬱陵島と松竹島の二島論と見るべきでしょう。これをミクロ的に「松島+竹島」とする必要はないものと思います。この問答を見て分かることは王が三島と把握しつつも距離をまったく把握できていなかったことと、鬱陵島検察使にあたる人でさえ「于山」について明快な地理認識がなかったという事実です。
さて、李奎遠は鬱陵島において102名の部下と一週間にわたって島を調査します。また船で二日におよぶ調査もしました。そして彼はこう記したのでした。
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松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(半月城通信)
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現地の人々とありますが、これは原文は「僑寓諸人」で仮住まいの人々ということでしょう。この人々が「于山・松竹」を近傍の小島にあてているとしています。それ以外にはないかと高所に上って見渡してもひとかけらの石も見ることができませんでした。独島は、なかったのです。あったのは近傍の小島、竹嶼と観音島などだったのでしょう。
これについて、半月城さんの意見を引用してみます。
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なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。
その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になりかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。
実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。(半月城通信)
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現地の人が「于山・松竹」を近傍の小島にあてているのですが、もちろん李奎遠は百二名の部下を連れて一週間、そして船で二日間調査したのですから、松竹島は当然に見ています。于山島についても知っていたはずです。おそらくそれが独島であれば方向、そして船でどれだけ行けば着くか、天気の日にはどう見えるか、全ての情報が分かったはずです。しかし、李奎遠は一切独島を認識していません。
長くなりましたが、結論は、こうです。
>日本が軍艦を派遣して鬱陵島を実測調査して「竹島」だの「松島」だの「リアンクール岩」などの名前を勝手につけ、海岸と領土をねらっていたとき、朝鮮政府は何をしていたのか?
独島を認識していなかったのです。
私はここで「于山・松竹」を住民が近傍の小島をあてていることについて、于山島は観音島、松竹島を竹嶼に今のところ考えています。これは、1899年のラボーテの記事に見られる「于山島・竹島」として考えることができるものであり、またひいては1900年の「石島・竹島」にまでいたるものと考えます。
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王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」
李奎遠曰く「謹んで精一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」
王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」
李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」(半月城通信:1547)
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松竹島のほかに松島・竹島があるわけではないというのは、つまり鬱陵島と松竹島の二島論と見るべきでしょう。これをミクロ的に「松島+竹島」とする必要はないものと思います。この問答を見て分かることは王が三島と把握しつつも距離をまったく把握できていなかったことと、鬱陵島検察使にあたる人でさえ「于山」について明快な地理認識がなかったという事実です。
さて、李奎遠は鬱陵島において102名の部下と一週間にわたって島を調査します。また船で二日におよぶ調査もしました。そして彼はこう記したのでした。
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松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(半月城通信)
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現地の人々とありますが、これは原文は「僑寓諸人」で仮住まいの人々ということでしょう。この人々が「于山・松竹」を近傍の小島にあてているとしています。それ以外にはないかと高所に上って見渡してもひとかけらの石も見ることができませんでした。独島は、なかったのです。あったのは近傍の小島、竹嶼と観音島などだったのでしょう。
これについて、半月城さんの意見を引用してみます。
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なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。
その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になりかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。
実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。(半月城通信)
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現地の人が「于山・松竹」を近傍の小島にあてているのですが、もちろん李奎遠は百二名の部下を連れて一週間、そして船で二日間調査したのですから、松竹島は当然に見ています。于山島についても知っていたはずです。おそらくそれが独島であれば方向、そして船でどれだけ行けば着くか、天気の日にはどう見えるか、全ての情報が分かったはずです。しかし、李奎遠は一切独島を認識していません。
長くなりましたが、結論は、こうです。
>日本が軍艦を派遣して鬱陵島を実測調査して「竹島」だの「松島」だの「リアンクール岩」などの名前を勝手につけ、海岸と領土をねらっていたとき、朝鮮政府は何をしていたのか?
独島を認識していなかったのです。
私はここで「于山・松竹」を住民が近傍の小島をあてていることについて、于山島は観音島、松竹島を竹嶼に今のところ考えています。これは、1899年のラボーテの記事に見られる「于山島・竹島」として考えることができるものであり、またひいては1900年の「石島・竹島」にまでいたるものと考えます。
これは メッセージ 2875 (hangetsujoh さん)への返信です.
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