ついでにお勉強しようね。
投稿者: mattouya 投稿日時: 2003/07/20 03:37 投稿番号: [2325 / 18519]
検索しても出て来たよ。
http://www.ktda.co.kr/japanese/site/kam_kameun.html
東海の龍になって国を守ると言った文武(ムンム)王は、生前直々に大王(デワン)岩の位置を定め、大王(デワン)岩を眺められる龍堂(ヨンダン)山を後にして龍潭(ヨンダム)が見下ろせる優れた場所に寺を建て、仏教の力で国を守ろうとした。
三国を統一して唐の勢力まで追い出した文武(ムンム)王であったが、当時しきりに攻め入り、煩わしさきわまる倭寇は、目の上のこぶのような存在に違いなかった。
そこで文武王は、仏の力を借りて倭寇を防ごうという考えで、東海の海辺に寺を建てたのである。
しかし寺の完成も見れず、王位に上ってから23年ぶりに世を去るに、シンムン王がその意図を継承し、翌年(682年)に寺を完工して感恩寺と命名した。
これは、仏心を通じた護国という父王の意図を受け継ぐ一方、父王の冥福を祈る親孝行の発露であったということである。
こういった物語を、もっと信憑性を感じさせるものは、東海の龍になったムンム(文武)王が、出入りできるように造っておいたという金堂の下の空間である。
感恩寺の塔は、従来の平地伽藍から山地伽藍に、古新羅の一塔中心の伽藍配置から双塔一金堂に変わる過程において見られる最初のものである。
すなわち、東西に二つの塔を建てて、この二つの石塔の間の中心を通る南北船上に、中門と金堂、講堂を建てた形である。
中門は石塔の南側に、金堂と講堂は石塔の北側に位置している。
回廊とは南、東で回廊が確認され、金堂の左右には東、西の回廊に繋がる主回廊がある。
これは、仏国寺でも見られる形式である。
また、中門の南に精巧に積み上げた石垣があり、この石垣の外側には、現在池が一つ残っている。
これを 潭(ヨンダム)と言う。統一新羅当時、感恩寺が大鐘(デゾン)川の辺りに立てられ、また東海の龍が出入りできる構造で造られたものならば、この池が大鐘(デゾン)川と繋がっていて、また金堂の床の下の空間とも繋がっていたのではないかとの推測を可能にさせる。
金堂の底の装置は、二重の方形台石の上に長大石をかける形で、その上に大きな長大石を直角に、床を下に広げるように敷いて、その上に礎石をおくようにしたものである。
そして、長大石の下は、空洞にするという特殊な技法を用いた。
金堂跡の周辺には、石材が散らばっている。
金堂跡の前の石材の中には、太極の柄と幾何学的な柄が刻まれているのが目立つが、一目見ただけでも、ありふれた石ではなく、金堂や他の建物に使われた石材であることがすぐにわかるものであ
寺刹の跡地で、金堂の前の左右に建っている3重石塔は、新羅時代の作品として現在残っているものの中では、一番大きいものである。
大地にしっかりと足を付けて、空に向けて高くそびえ立つ二つの塔は、大きさで見ても、また周りを圧倒する威厳の面においても、新羅を代表する素晴らしい塔ということに異議を唱えるものはない。
統一した新しい国家の威厳を保ち、安寧を祈る意味で感恩寺が建てられたように、それと同じ時代の時代精神は、立派でおごそかな、安定した3重石塔を生み出したのである。感恩寺の塔は非常に丈夫な2重の基壇に、3重の塔身を上げて屋根の石(屋蓋石)の先が傾斜になっていて、統一新羅7世紀後半の石塔の典型的な様式を見せている。
金堂の裏側にある大きな林を過ぎて丘を上れば、寺刹の跡地と周辺の景色が調和をなす中で、おごそかに高くそびえ立つ塔を見ることができる。
大鐘(デゾン)川の向かいの下から、二つの塔を見上げるのもまた違った味があり風流である。
感恩寺の跡は、史蹟第31号に指定されている。
http://www.ktda.co.kr/japanese/site/kam_kameun.html
東海の龍になって国を守ると言った文武(ムンム)王は、生前直々に大王(デワン)岩の位置を定め、大王(デワン)岩を眺められる龍堂(ヨンダン)山を後にして龍潭(ヨンダム)が見下ろせる優れた場所に寺を建て、仏教の力で国を守ろうとした。
三国を統一して唐の勢力まで追い出した文武(ムンム)王であったが、当時しきりに攻め入り、煩わしさきわまる倭寇は、目の上のこぶのような存在に違いなかった。
そこで文武王は、仏の力を借りて倭寇を防ごうという考えで、東海の海辺に寺を建てたのである。
しかし寺の完成も見れず、王位に上ってから23年ぶりに世を去るに、シンムン王がその意図を継承し、翌年(682年)に寺を完工して感恩寺と命名した。
これは、仏心を通じた護国という父王の意図を受け継ぐ一方、父王の冥福を祈る親孝行の発露であったということである。
こういった物語を、もっと信憑性を感じさせるものは、東海の龍になったムンム(文武)王が、出入りできるように造っておいたという金堂の下の空間である。
感恩寺の塔は、従来の平地伽藍から山地伽藍に、古新羅の一塔中心の伽藍配置から双塔一金堂に変わる過程において見られる最初のものである。
すなわち、東西に二つの塔を建てて、この二つの石塔の間の中心を通る南北船上に、中門と金堂、講堂を建てた形である。
中門は石塔の南側に、金堂と講堂は石塔の北側に位置している。
回廊とは南、東で回廊が確認され、金堂の左右には東、西の回廊に繋がる主回廊がある。
これは、仏国寺でも見られる形式である。
また、中門の南に精巧に積み上げた石垣があり、この石垣の外側には、現在池が一つ残っている。
これを 潭(ヨンダム)と言う。統一新羅当時、感恩寺が大鐘(デゾン)川の辺りに立てられ、また東海の龍が出入りできる構造で造られたものならば、この池が大鐘(デゾン)川と繋がっていて、また金堂の床の下の空間とも繋がっていたのではないかとの推測を可能にさせる。
金堂の底の装置は、二重の方形台石の上に長大石をかける形で、その上に大きな長大石を直角に、床を下に広げるように敷いて、その上に礎石をおくようにしたものである。
そして、長大石の下は、空洞にするという特殊な技法を用いた。
金堂跡の周辺には、石材が散らばっている。
金堂跡の前の石材の中には、太極の柄と幾何学的な柄が刻まれているのが目立つが、一目見ただけでも、ありふれた石ではなく、金堂や他の建物に使われた石材であることがすぐにわかるものであ
寺刹の跡地で、金堂の前の左右に建っている3重石塔は、新羅時代の作品として現在残っているものの中では、一番大きいものである。
大地にしっかりと足を付けて、空に向けて高くそびえ立つ二つの塔は、大きさで見ても、また周りを圧倒する威厳の面においても、新羅を代表する素晴らしい塔ということに異議を唱えるものはない。
統一した新しい国家の威厳を保ち、安寧を祈る意味で感恩寺が建てられたように、それと同じ時代の時代精神は、立派でおごそかな、安定した3重石塔を生み出したのである。感恩寺の塔は非常に丈夫な2重の基壇に、3重の塔身を上げて屋根の石(屋蓋石)の先が傾斜になっていて、統一新羅7世紀後半の石塔の典型的な様式を見せている。
金堂の裏側にある大きな林を過ぎて丘を上れば、寺刹の跡地と周辺の景色が調和をなす中で、おごそかに高くそびえ立つ塔を見ることができる。
大鐘(デゾン)川の向かいの下から、二つの塔を見上げるのもまた違った味があり風流である。
感恩寺の跡は、史蹟第31号に指定されている。
これは メッセージ 2324 (mattouya さん)への返信です.
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