こういうのもありますね。
投稿者: nobuo_shoudoshima 投稿日時: 2003/05/29 19:19 投稿番号: [1908 / 18519]
http://www4.justnet.ne.jp/~masarukou/sisen.html
より。
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今年は泗川の戦い400周年に当たります。
島津義弘公は秀吉により文禄の役・慶長の役と朝鮮に渡らさせられ無益な 戦を戦わさせられました。
慶長の役の末期に秀吉が死んだので、朝鮮にいる武将たちに帰国命令が 下りましたが、それを知った明軍・朝鮮軍は20万ともいわれる軍勢を 日本軍の中央を守る義弘公の泗川に向けてきました。
中央を守る島津軍を破れば、日本軍は分断され全滅できると思ったようです。
義弘公は、泗川にいくつかあった支城を破棄し、泗川に新たに築いた城に立て籠もり ました。
この時島津軍は1万足らずの軍勢だったといわれています。
ここで敵を引きつけるだけ引きつけてから鉄砲の一斉射撃ののち突撃をし 散々に打ち破りました。
しかしながらこれですべて終わったわけではありません。
義弘公は、明の将軍が朝鮮の海将李舜臣らとともに日本軍の日本への帰路 を断とうとしたので再び順天海上で戦となり、義弘公も散々苦戦しなんとか 危機を逃れたものの多数の家臣を失いました。
李舜臣はこの戦で死にましたが、韓国の人にはいまだに救国の英雄として たたえられ、私の好きな武将でもあります。
歴史の教科書などを見ると「秀吉が死んだので朝鮮から兵を引きました」 などと簡単に書いてあるだけですが、そんなに簡単なものではなかったのです。
もし島津義弘公の冷静な指揮がなければ、島津軍は全滅し、 日本軍のほとんどが朝鮮の地で討ち死にしたものと思われます。
しかしながら、義弘公は好き好んで朝鮮で戦をしたわけではありませんでした。
決戦の直後に泗川に敵味方供養塚をつくり、帰国後、忠恒公と連名で紀州高野山に 敵味方供養碑を建立しました。
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敵であっても供養するという美しい日本の習慣です。日本人以外には理解しにくいかも知れません。
これは メッセージ 1907 (mattouya さん)への返信です.
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