Re: ararenotomoさんと外一島
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/01/08 12:23 投稿番号: [17667 / 18519]
長文のご意見を有難うございます。まとめて答えさせて頂きます。
yabutarou01さんは、“この文章で重要なのは別紙甲号の「竹島松島之義」の「松島」と別紙乙号の「大倉組社員が松島(これは鬱陵島)で伐木している」の「松島」とを同じ島であるとこの文章の書き手(西村捨三)は認識しているということです。”と述べられました。
しかし私は、西村捨三は「内務権大書記官西村捨三発外務書記官あて照会」中の「竹島松島之義」の「松島」と別紙乙号の「大倉組社員が松島(これは鬱陵島)で伐木している」の「松島」とを同じ島である、とは認識していなかったと思います。
もし、西村捨三が「日本海ニ在ル竹島松島之義」の松島を鬱陵島と認識しているならば、竹島は鬱陵島ですから「竹島(鬱陵島)松島(鬱陵島)之義」となってしまいます。従って西村捨三は、「竹島松島之義」の松島は「本来の松島」、内務省作成の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」にある「外一島」も、『原由の大畧』にある「次ニ一島アリ松島ト呼フ」の「本来の松島」であり、鬱陵島とは決して考えていなかったと思います。
また、別紙乙号の「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」は、竹島と呼ばれていた鬱陵島に松島と称して開墾願書が提出されたので、「竹島外一島本邦関係無之」とした太政官指令が変更になり、「竹島外一島」が「本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟」と尋ねたものです。島根県令境二郎が松島=鬱陵島と外一島の松島=現竹島を混同しているとは、この文章から私には読み取れません。
yabutarou01さんは、明治37年(1904年)11月15日に現竹島の命名について問い合わせを受けた隠岐島司の東文輔は、“元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般口碑の伝ふる所、而して従来当地方より樵耕者の往来する欝陵島を竹島と通称するも、其実は松島にして海図によるも瞭然たる次第に有之候”と回答したことから、“東文輔は海図による「松島」すなわち鬱陵島と混同してしまっています”と書かれました。しかしこの文章は、欝陵島を竹島と称するも海図では松島である、と述べただけです。
鬱陵島が海図で松島となったことについては、1876年海軍水路寮発行の『朝鮮東海岸圖』で、鬱陵島を松島とし、隠岐よりにヲリウツ礁・メ子ライ礁、朝鮮よりに点線でアルゴナフタ島を描いたことに始まり、以後、海軍水路部は『朝鮮水路誌』に「リアンコールト列岩」とともに「欝陵島一名松島」と記すようになった、と思われます。
これについて奥原碧雲は、『竹島及鬱陵島』(1907)で、『隠州視聽合記』『遠記(おき)古記集』『邊要分界圖考』『地誌提要』を引用して、「何れも鬱陵島を竹島とし、新竹島を松島と稱せしが如し。然に水路誌はこれを轉倒して、鬱陵島一名松島とし、新竹島をリアンコールト列岩とし佛國船の發見となせり、」と述べ、さらに「水路誌はこの岩嶼發見を外國船に委して顧みず、(中略)海圖には朝鮮の部に編入せられしが如き、遺憾の極といはざるべからず。」と嘆いています。
このように海軍は、旧幕府の見解に従い、竹島のみならず松島も日本領とは考えていませんでした。これは陸軍も同様でした。1873年中根淑は3巻からなる『兵要日本地理小誌』を陸軍兵學寮より出版しました。その「隠岐誌」や付図の正確且美麗な「兵要日本地理小誌全圖」に竹島松島は記載されていません。この地図には、日本領確定以前にも拘らず「樺太州全圖」「北海道東北隅千島諸島之圖」「小笠原群島總圖」は挿入されています。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/map/doc/0D021790000000.html
yabutarou01さんが示された1975年の陸軍参謀局「亜細亜東部輿地圖」や同「朝鮮全圖」は、西洋の誤った地図に基づき、鬱陵島を松島とし朝鮮よりに点線で竹島を描いています。
明治初期、内務省や陸海軍は竹島松島を版図外と考えていました。しかし、大槻修二・文彦兄弟、塚本明毅、渡邊洪基らは、民族主義者として失った日本権益の復権を目指したと言えるでしょう(Nos. 14932, 15715, 15815, 15816, 15927, 17552)。
yabutarou01さんは、“この文章で重要なのは別紙甲号の「竹島松島之義」の「松島」と別紙乙号の「大倉組社員が松島(これは鬱陵島)で伐木している」の「松島」とを同じ島であるとこの文章の書き手(西村捨三)は認識しているということです。”と述べられました。
しかし私は、西村捨三は「内務権大書記官西村捨三発外務書記官あて照会」中の「竹島松島之義」の「松島」と別紙乙号の「大倉組社員が松島(これは鬱陵島)で伐木している」の「松島」とを同じ島である、とは認識していなかったと思います。
もし、西村捨三が「日本海ニ在ル竹島松島之義」の松島を鬱陵島と認識しているならば、竹島は鬱陵島ですから「竹島(鬱陵島)松島(鬱陵島)之義」となってしまいます。従って西村捨三は、「竹島松島之義」の松島は「本来の松島」、内務省作成の「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」にある「外一島」も、『原由の大畧』にある「次ニ一島アリ松島ト呼フ」の「本来の松島」であり、鬱陵島とは決して考えていなかったと思います。
また、別紙乙号の「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」は、竹島と呼ばれていた鬱陵島に松島と称して開墾願書が提出されたので、「竹島外一島本邦関係無之」とした太政官指令が変更になり、「竹島外一島」が「本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟」と尋ねたものです。島根県令境二郎が松島=鬱陵島と外一島の松島=現竹島を混同しているとは、この文章から私には読み取れません。
yabutarou01さんは、明治37年(1904年)11月15日に現竹島の命名について問い合わせを受けた隠岐島司の東文輔は、“元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般口碑の伝ふる所、而して従来当地方より樵耕者の往来する欝陵島を竹島と通称するも、其実は松島にして海図によるも瞭然たる次第に有之候”と回答したことから、“東文輔は海図による「松島」すなわち鬱陵島と混同してしまっています”と書かれました。しかしこの文章は、欝陵島を竹島と称するも海図では松島である、と述べただけです。
鬱陵島が海図で松島となったことについては、1876年海軍水路寮発行の『朝鮮東海岸圖』で、鬱陵島を松島とし、隠岐よりにヲリウツ礁・メ子ライ礁、朝鮮よりに点線でアルゴナフタ島を描いたことに始まり、以後、海軍水路部は『朝鮮水路誌』に「リアンコールト列岩」とともに「欝陵島一名松島」と記すようになった、と思われます。
これについて奥原碧雲は、『竹島及鬱陵島』(1907)で、『隠州視聽合記』『遠記(おき)古記集』『邊要分界圖考』『地誌提要』を引用して、「何れも鬱陵島を竹島とし、新竹島を松島と稱せしが如し。然に水路誌はこれを轉倒して、鬱陵島一名松島とし、新竹島をリアンコールト列岩とし佛國船の發見となせり、」と述べ、さらに「水路誌はこの岩嶼發見を外國船に委して顧みず、(中略)海圖には朝鮮の部に編入せられしが如き、遺憾の極といはざるべからず。」と嘆いています。
このように海軍は、旧幕府の見解に従い、竹島のみならず松島も日本領とは考えていませんでした。これは陸軍も同様でした。1873年中根淑は3巻からなる『兵要日本地理小誌』を陸軍兵學寮より出版しました。その「隠岐誌」や付図の正確且美麗な「兵要日本地理小誌全圖」に竹島松島は記載されていません。この地図には、日本領確定以前にも拘らず「樺太州全圖」「北海道東北隅千島諸島之圖」「小笠原群島總圖」は挿入されています。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/map/doc/0D021790000000.html
yabutarou01さんが示された1975年の陸軍参謀局「亜細亜東部輿地圖」や同「朝鮮全圖」は、西洋の誤った地図に基づき、鬱陵島を松島とし朝鮮よりに点線で竹島を描いています。
明治初期、内務省や陸海軍は竹島松島を版図外と考えていました。しかし、大槻修二・文彦兄弟、塚本明毅、渡邊洪基らは、民族主義者として失った日本権益の復権を目指したと言えるでしょう(Nos. 14932, 15715, 15815, 15816, 15927, 17552)。
これは メッセージ 17648 (yabutarou01 さん)への返信です.
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