竹島

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143巻完成 & シリーズ 上海万博への道

投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2008/08/31 10:49 投稿番号: [17049 / 18519]
シリーズ「北京オリンピックの道」と題して尖閣の資料を集中的に掲載してきましたが、余りにも資料が多すぎて結局全てを掲載することが出来ませんでした。ここで竹島資料に戻るべきか、引き続き尖閣資料を掲載すべきか迷った挙句、本日決断しました。そこで今週の尖閣掲示板エンディングテーマが決まりました。


さて、掲題の件ですが、『地学雑誌』の143巻の文章起こしが完成しました。
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/chigakuzasshi/
(次回「144巻」の文章起こしをします)

143巻の文章起こしをしていて、人によって事実関係に違いがあります。尖閣諸島の移住に関しては、島名を挙げずに尖閣列島と言っている人、魚釣島と言っている人、久場島と言っている人、魚釣島と久場島と言っている人。また移住人数も人によってまちまちです。上記の143巻の赤字を見れば分かりますが、当時の一部人間は、魚釣島と久場島を取り違えています。竹島と松島がアベコベになったのと同じですね。で、人によって主張が違うというのは、下記の一覧でまとめましたのでご覧下さい。

1897年(M30)、古賀辰四郎は沖縄県庁に開拓の目的をもって無人島借区を願い出て三○年間無償借地の許可をとる
1898年(M31)、大阪商船の須磨丸を久場島に寄航させて移住労働者二八名を送り込むことに成功
1899年(M32)、大阪商船の永康丸で男子13名女子9名を送り込んだ。この年の久場島在留者は23名となり古賀村なる一村を形作るまでになった。
(奥原敏雄)

1897年(M30)、古賀氏は50人の労働者を尖閣列島に派遣、これらの干拓事業に従事させた
1898年(M31)、同じく50人派遣
1899年(M32)、29人派遣
1900年(M33)、男子13人、女子9人を送り込んだ
1918年(T7)、古賀辰四郎氏が亡くなった後、その息子古賀善次氏によって開拓と事業が続けられ(中略) 事業の最盛期には、カツオブシ製造の漁夫80、剥製作りの職人70〜80人が魚釣島と南小島に居住
(尖閣列島研究会)

1897年(M30)、2隻の改良遠洋漁船をもって、石垣島から35人の労働者を派遣し
1898年(M31)、更に50人を加えて魚釣島で住宅や事業所、船着場などを建設して、本格的に開拓事業を始めた
(牧野清)


1897年(M30)、毎年30人、40人と開拓民を尖閣列島に送りこむ。最初の4年間に島に渡った移住者は、136人に達しそのなかには女性9人も含まれていた。
1903年(M36)、内地から剥製職人10数人が移住
1909年(M42)、定住者は、実に248人に達し、99戸を数えた。
(上地龍典)

須磨丸
http://homepage3.nifty.com/jpnships/meiji02/meiji02_tairiku01.htm

島名がアベコベになった事実は更に追求します。



next, coming up(シリーズ上海万博への道)
http://en.expo2010china.com/
http://www.shanghai-expo-sangyoukan.jp/
『地学雑誌』(文章起こし中)
『琉球国図』

今日の尖閣掲示板エンディングテーマ
「上海レポート   上海万博開幕へカウントダウン」
http://jp.youtube.com/watch?v=QmMoV4kQumA
【中国】上海万博って何?(前半)
http://jp.youtube.com/watch?v=LaKRRrPT5PM
【中国】上海万博って何?(後半)
http://jp.youtube.com/watch?v=op5c7BPBDkY&feature=related
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