樋畑雪湖:竹島は江原道に屬し朝鮮の領分
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2008/07/22 22:53 投稿番号: [16955 / 18519]
近世交通史の研究者樋畑雪湖は、1930年『歴史地理』(55巻, p.590-591)に「日本海に於ける竹島の日鮮関係に就いて」と題する論考を寄せ、「竹島(リアンコルド島)は欝陵島と共に今は朝鮮の江原道に屬してゐて、朝鮮の領分として日本海中最東部に屬してゐる。」と記し、さらに「(竹島は)寧ろ日本の領土に近く漁業等の関係からして我版圖に屬すべきを適當と思ふのである。」と述べました。
この記述から樋畑雪湖は、1905年2月22日の島根縣告示第四十號「北緯三十七度九分三十秒東經百三十一度五十五分隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト稱シ自今本縣所屬島司ノ所管ト定メラル」を全く知らなかったものと見えます。
松代藩士の子である樋畑雪湖(1858-1943)は、1875年同郷の川上冬崖を頼り、陸軍参謀本部図生となりました。川上冬崖(1827-1881)は、1871年伊能忠敬の図を利用した市販近代地図の第1号とされる、色彩豊かな美しい『大日本地圖』を作りました(渡辺一郎『伊能忠敬の地図をよむ』河出書房新社, 2000)。冬崖は当時、地図課長木村信卿少佐(1840-1906)の下で陸軍参謀局から1877年に発行された『大日本全圖』などの編纂に携っていたと思われます。なお、これら二つの地図に「松島竹島」は描かれていません。
http://www.jsokuryou.jp/Corner/kikansi/special/2004/200406/200406.htm#No1
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/dainihonzenzu-1877/
その後樋畑雪湖は、1878年長野県庁図生から1885年逓信省に入り、官製絵葉書と郵便切手デザインの中心となり、逓信博物館を創設しました。雪湖はまた、長野時代に知遇を得た志賀重昂の『日本風景論』(初版1894年)の挿絵を描き「ベストセラー化の隠れた功労者」とされています(猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館, 1986)。
「美しい日本」を讃える多くの地理書を著した志賀重昂(1863-1927)は、辺境の島々にも関心が高く、南鳥島・鳥島・硫黄諸島・大東諸島・尖閣諸島にしばしば言及しています(例えば『世界山水圖説』1912)。特に南鳥島については、1898年の東京府知事告示による領有化に、大きな役割を果しました。しかし志賀重昂は、島根縣隠岐の項に「松島竹島」を載せませんでした(例えば『地理講話』早稲田大学出版部, 1906)。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006029&VOL_NUM=00000&KOMA=75&ITYPE=0
一方、山崎直方・佐藤傳藏編『大日本地誌』(博文館, 1907)は、「隠岐國」条で竹島を正確に記述しました。「隠岐群島の西北海上約八十五浬を距て、一孤島あり、竹島といふ。從來何れの國に屬するや不明なりしが明治三十八年二月二日(ママ)以降公然日本の版圖に入り、島根縣所屬隠岐島司の所管となれり。・・島は一つの狹き水道(長さ約三百三十米幅凡そ百米、深さ凡そ五尋)を距てヽ東西に相對峙せる二個の主島と其の附近に碁布散列せる數個の小岩礁とより成る。・・」
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006494&VOL_NUM=00006&KOMA=118&ITYPE=0
ただし、佐藤傳藏『日本新地理』(博文館, 1898)の「隠岐」条には「松島竹島」は記されていません。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006650&VOL_NUM=00000&KOMA=98&ITYPE=0
東大地質学科出身の地理学者山崎直方(1870-1929)と佐藤傳藏(1870-1928)は「島根縣告示」を素直に受け入れました。他方、地理に造詣の深い樋畑雪湖が、竹島を欝陵島と共に江原道に属させたのもまた、極めて自然な発想と思われます(Nos.14988, 15005)。
この記述から樋畑雪湖は、1905年2月22日の島根縣告示第四十號「北緯三十七度九分三十秒東經百三十一度五十五分隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト稱シ自今本縣所屬島司ノ所管ト定メラル」を全く知らなかったものと見えます。
松代藩士の子である樋畑雪湖(1858-1943)は、1875年同郷の川上冬崖を頼り、陸軍参謀本部図生となりました。川上冬崖(1827-1881)は、1871年伊能忠敬の図を利用した市販近代地図の第1号とされる、色彩豊かな美しい『大日本地圖』を作りました(渡辺一郎『伊能忠敬の地図をよむ』河出書房新社, 2000)。冬崖は当時、地図課長木村信卿少佐(1840-1906)の下で陸軍参謀局から1877年に発行された『大日本全圖』などの編纂に携っていたと思われます。なお、これら二つの地図に「松島竹島」は描かれていません。
http://www.jsokuryou.jp/Corner/kikansi/special/2004/200406/200406.htm#No1
http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/dainihonzenzu-1877/
その後樋畑雪湖は、1878年長野県庁図生から1885年逓信省に入り、官製絵葉書と郵便切手デザインの中心となり、逓信博物館を創設しました。雪湖はまた、長野時代に知遇を得た志賀重昂の『日本風景論』(初版1894年)の挿絵を描き「ベストセラー化の隠れた功労者」とされています(猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館, 1986)。
「美しい日本」を讃える多くの地理書を著した志賀重昂(1863-1927)は、辺境の島々にも関心が高く、南鳥島・鳥島・硫黄諸島・大東諸島・尖閣諸島にしばしば言及しています(例えば『世界山水圖説』1912)。特に南鳥島については、1898年の東京府知事告示による領有化に、大きな役割を果しました。しかし志賀重昂は、島根縣隠岐の項に「松島竹島」を載せませんでした(例えば『地理講話』早稲田大学出版部, 1906)。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006029&VOL_NUM=00000&KOMA=75&ITYPE=0
一方、山崎直方・佐藤傳藏編『大日本地誌』(博文館, 1907)は、「隠岐國」条で竹島を正確に記述しました。「隠岐群島の西北海上約八十五浬を距て、一孤島あり、竹島といふ。從來何れの國に屬するや不明なりしが明治三十八年二月二日(ママ)以降公然日本の版圖に入り、島根縣所屬隠岐島司の所管となれり。・・島は一つの狹き水道(長さ約三百三十米幅凡そ百米、深さ凡そ五尋)を距てヽ東西に相對峙せる二個の主島と其の附近に碁布散列せる數個の小岩礁とより成る。・・」
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006494&VOL_NUM=00006&KOMA=118&ITYPE=0
ただし、佐藤傳藏『日本新地理』(博文館, 1898)の「隠岐」条には「松島竹島」は記されていません。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006650&VOL_NUM=00000&KOMA=98&ITYPE=0
東大地質学科出身の地理学者山崎直方(1870-1929)と佐藤傳藏(1870-1928)は「島根縣告示」を素直に受け入れました。他方、地理に造詣の深い樋畑雪湖が、竹島を欝陵島と共に江原道に属させたのもまた、極めて自然な発想と思われます(Nos.14988, 15005)。
これは メッセージ 15815 (ararenotomo さん)への返信です.
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