Re: 1735年の于山島
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/03/07 13:42 投稿番号: [16361 / 18519]
>1735年においても古い情報(鬱稜島の西にある架空の鬱稜島)に基づいた于山島の認識が存在していたということですな。
張漢相の「鬱陵島事蹟」(No.1292)から40年。3年に1度は搜討していたのですから、10回以上鬱陵島を調査していた筈です。しかるに、于山島が鬱陵島の西に在ると朝鮮中枢が考えていたと認められる史料です。
又、「于山島も廣潤と云う」のですから、于山島がリャンコ島でないことはあきらかです。
朝鮮王朝実録 http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp
英祖11年(1735)1月13日
江原監司趙最壽啓言: “鬱陵島搜討, 今年當行, 而歉?有弊, 請停之。”
金取魯等曰: “往在丁丑, 倭人請得此島, 朝家嚴斥,
而遣張漢相, 圖形以來, 定以三年一往, 不可停也。”
上可之。
江原道監事:「鬱陵島の捜討を今年は実施しなければならないが、凶年なのでこれを停止したい。」
金取魯:「去る年、倭人がこの島を請うたが、朝廷はこれを排斥すると共に、張漢相を送りその島の図形を明らかにした。その上で3年に一度往くことに決めた。これは停止できない。」
お上は、これを可とした。
承政院日記 http://sjw.history.go.kr/main/main.jsp
英祖11年(1735)1月13日
取魯曰, 丁丑戊寅年間, 朝家送張漢相, 看審圖形以來,
而聞鬱陵島廣潤土沃, 曾有人居基址, 或有船舶往來之痕。
其西, 又有于山島, 而亦且廣潤云矣。
其後仍有三年一搜討之定式, 此與年例操?停止
取魯曰:去る年、朝廷は張漢相を送りその島の図形を調べた、以来、
聞くに、鬱陵島は土地が広く潤っている。人が住んだ址があり、船舶が往来した痕がある。
その西に于山島がある。その島も亦、広く潤っている。
その後3年に1度は搜討することにした。今年は搜討の年であるが、この慣例は停止して、
張漢相の「鬱陵島事蹟」(No.1292)から40年。3年に1度は搜討していたのですから、10回以上鬱陵島を調査していた筈です。しかるに、于山島が鬱陵島の西に在ると朝鮮中枢が考えていたと認められる史料です。
又、「于山島も廣潤と云う」のですから、于山島がリャンコ島でないことはあきらかです。
朝鮮王朝実録 http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp
英祖11年(1735)1月13日
江原監司趙最壽啓言: “鬱陵島搜討, 今年當行, 而歉?有弊, 請停之。”
金取魯等曰: “往在丁丑, 倭人請得此島, 朝家嚴斥,
而遣張漢相, 圖形以來, 定以三年一往, 不可停也。”
上可之。
江原道監事:「鬱陵島の捜討を今年は実施しなければならないが、凶年なのでこれを停止したい。」
金取魯:「去る年、倭人がこの島を請うたが、朝廷はこれを排斥すると共に、張漢相を送りその島の図形を明らかにした。その上で3年に一度往くことに決めた。これは停止できない。」
お上は、これを可とした。
承政院日記 http://sjw.history.go.kr/main/main.jsp
英祖11年(1735)1月13日
取魯曰, 丁丑戊寅年間, 朝家送張漢相, 看審圖形以來,
而聞鬱陵島廣潤土沃, 曾有人居基址, 或有船舶往來之痕。
其西, 又有于山島, 而亦且廣潤云矣。
其後仍有三年一搜討之定式, 此與年例操?停止
取魯曰:去る年、朝廷は張漢相を送りその島の図形を調べた、以来、
聞くに、鬱陵島は土地が広く潤っている。人が住んだ址があり、船舶が往来した痕がある。
その西に于山島がある。その島も亦、広く潤っている。
その後3年に1度は搜討することにした。今年は搜討の年であるが、この慣例は停止して、
これは メッセージ 15568 (henchin_pokoider01 さん)への返信です.
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