Re: 『大日本府県分轄図』 拡大版
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/10/03 22:44 投稿番号: [15893 / 18519]
Tanaka_Kunitakaさん
内閣文庫に所蔵されていた『大日本府縣分轄圖』内『大日本全國略圖』の拡大図の掲示を有難うございます(No.15824)。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/fukenbunkatsuzu-1881/
拡大すると、松島は隠岐や山陰道と同じ褐色に彩られていることが分り、大変興味深く感じました。1881年出版の『大日本全國略圖』は、当時内務省地理局地誌課長であった塚本明毅の主導の下に作られました。彼が松島を隠岐や山陰道と同色に彩った気持ちはよく理解できます。
塚本明毅は幕府海軍で測量と地図制作の第一人者でした。1862年幕府最初の小笠原巡視に派遣された咸臨丸艦長小野友五郎は、父島の地図制作は自らが行い、母島は16歳年下の塚本明毅に任せました。この二つの地図は後に、小笠原帰属に関する外交交渉において英米の発言権を封じる最大の切札となりました(藤井哲博『小野友五郎の生涯』中公新書, 1985)。塚本明毅は1868年4月軍艦頭並を病気と称し辞任、海軍を離れましたが、太政官正院に出仕して、1872年「方今政令一途に帰す、而して方輿の書の未だ修めず、国家の一大闕典と謂ふべし」と上書し、皇国地誌編纂に情熱を燃やしました(No.15715)。
塚本明毅は、1873年ウイン万国博に出陳する、明治新政府最初の日本全図『Carte de l'empire du Japon』を制作し、「松島竹島」を日本領として全世界に向け発信しました(No.15816)。そして皇国地誌『日本地誌提要』では、「松島竹島」を隠岐國の島嶼と明記しました(No.12262)。しかし、内務省と太政官は内政と朝鮮との友好を優先し、1877年3月「竹島外一島本邦関係無之」と決定したので、「松島竹島」の日本領化を熱心に勧めてきた塚本明毅は、この決定を無念の思いで受け入れたことでしょう(No.15815)。
内務省高官として塚本明毅は、政府の公的な地図である『大日本國全圖』(1880)と『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方に、「松島竹島」を載せることは出来ませんでした(No.15720)。しかし『大日本府縣分轄圖』内の『大日本全國略圖』で、塚本明毅は、「松島」を「竹島一件」で放棄した鬱陵島、「竹島」を烏有のアルゴノート島の位置に比定し、「竹島外一島」を版図外とした太政官指令に対し、ささやかな抗議の意を示しました(No.15816)。さらに彼は、一部の『大日本全國略圖』において、拡大しなければ分らない程とはいえ、「松島」を隠岐・山陰道と同色に彩りました。この「松島」への彩色は、「松島竹島」の領有化を図り挫折した、塚本明毅の鬱積した心情の象徴と見ることが出来るでしょう。
内閣文庫に所蔵されていた『大日本府縣分轄圖』内『大日本全國略圖』の拡大図の掲示を有難うございます(No.15824)。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/fukenbunkatsuzu-1881/
拡大すると、松島は隠岐や山陰道と同じ褐色に彩られていることが分り、大変興味深く感じました。1881年出版の『大日本全國略圖』は、当時内務省地理局地誌課長であった塚本明毅の主導の下に作られました。彼が松島を隠岐や山陰道と同色に彩った気持ちはよく理解できます。
塚本明毅は幕府海軍で測量と地図制作の第一人者でした。1862年幕府最初の小笠原巡視に派遣された咸臨丸艦長小野友五郎は、父島の地図制作は自らが行い、母島は16歳年下の塚本明毅に任せました。この二つの地図は後に、小笠原帰属に関する外交交渉において英米の発言権を封じる最大の切札となりました(藤井哲博『小野友五郎の生涯』中公新書, 1985)。塚本明毅は1868年4月軍艦頭並を病気と称し辞任、海軍を離れましたが、太政官正院に出仕して、1872年「方今政令一途に帰す、而して方輿の書の未だ修めず、国家の一大闕典と謂ふべし」と上書し、皇国地誌編纂に情熱を燃やしました(No.15715)。
塚本明毅は、1873年ウイン万国博に出陳する、明治新政府最初の日本全図『Carte de l'empire du Japon』を制作し、「松島竹島」を日本領として全世界に向け発信しました(No.15816)。そして皇国地誌『日本地誌提要』では、「松島竹島」を隠岐國の島嶼と明記しました(No.12262)。しかし、内務省と太政官は内政と朝鮮との友好を優先し、1877年3月「竹島外一島本邦関係無之」と決定したので、「松島竹島」の日本領化を熱心に勧めてきた塚本明毅は、この決定を無念の思いで受け入れたことでしょう(No.15815)。
内務省高官として塚本明毅は、政府の公的な地図である『大日本國全圖』(1880)と『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方に、「松島竹島」を載せることは出来ませんでした(No.15720)。しかし『大日本府縣分轄圖』内の『大日本全國略圖』で、塚本明毅は、「松島」を「竹島一件」で放棄した鬱陵島、「竹島」を烏有のアルゴノート島の位置に比定し、「竹島外一島」を版図外とした太政官指令に対し、ささやかな抗議の意を示しました(No.15816)。さらに彼は、一部の『大日本全國略圖』において、拡大しなければ分らない程とはいえ、「松島」を隠岐・山陰道と同色に彩りました。この「松島」への彩色は、「松島竹島」の領有化を図り挫折した、塚本明毅の鬱積した心情の象徴と見ることが出来るでしょう。
これは メッセージ 15824 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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